小林秀雄氏は、「批評について」 のなかで以下の文を綴っています。
元来自分と同時代に生き同じ問題に苦しんでいる人を厳密に
評するという事は、至難なわざであって、科学的とか客観的とか
やかましく言うが、まずいい加減なものだと私は思っている。
批評家をもって任ずる人々は、よろしくその重厚正確な仕事を
自由に発展させる場所として、文学史とか古典の研究とかを
選ぶのが当然であり、文芸時評の如きは余技と心得て然るべき
ではないかと思う。
正当な鑑賞のない処に批評は成りたたぬのは論をまたないが、
文芸時評という仕事では、この正当な鑑賞という土台が既に
事実上全く出鱈目である。作品を諒解する深浅は、なるほど
批評家の賢愚に準ずるが、これは大した問題ではないので、賢
であれ愚であれ、一流作品の前では批評家は皆一応は正直な
態度を強いられるものだ。これが名作のもつ力なのだ。ともかく
完全に文学の世界に引き入れてくれる、つまり正当な鑑賞という
土台石の上には立たせてくれるのだ。この最初の贈物を批評家
が作家から受ける受けないに較べれば、それから先の作品諒解
の深浅は大した問題ではないと言うのだ。
ところが文芸時評とか文芸月評とかいう仕事になるとどうだ。
常に好都合な名作を読まされるとは限らない。限らないという
事は誰でも知っている。しかし限らないということがどれほど
批評の混乱を事実上齎しているかという事を、人は気にかけず
にいる。(略) 私たち文学にたずさわるものが、どれほど文学に
たぶらかされているかは不思議なくらいなもので、口を開けば
ゲエテ も トルストイ も友だちのような事を言っているうちに、
自分のやっている仕事の非文学的な実相を忘れてしまう、
あるいは苦にしなくなってしまうのではないだろうか。
引用文の主要概念は、「正当な鑑賞」 でしょうね。そして、文芸時評の仕事では、それがない事が多い、と。
私は、同時代の小説を読まない──寧ろ、意識して読んで来なかった。文学賞を獲った作品であれ、ベストセラーの作品であれ、私は、同時代の小説を、過去 40年の間、一切 読んで来なかった。作家になるというのであれば話はべつでしょうが、そういう野望を抱いていない私は、自分の仕事 (エンジニア) として モデル の文法を考えることで手一杯なので、同時代の小説を読んで来なかったというにすぎない。そして、エンジニアになる前には、確かに、作家になりたいと思った事もあったけれど、覚悟にまで至らなかった。そのときに読んだ書物は、いわゆる「古典」です。そして、今でも、「古典」しか読まない。言い替えれば、「名作」しか読まなかった。そう言い切るのは せっかちかもしれない、「名作」 ばかりを読んで来た訳じゃないので、正確に言えば、「古典」的作品を読んでいて、その作家を気に入れば、その作家の全集 (あるいは選集) を買って、「その作家と付きあう (対話する)」 という読書法を続けてきました。さらに、文学に限らず、哲学・宗教でも、私は尊敬する人物の全集を買って読んで来ました。そういう読書法を続けていれば、他の作家を読む余力がない。
こういう読書法が、「正当な鑑賞」 になるのかどうかは私にはわからないけれど、私にとって、そういう読書が一番に愉しい──愉しいという意味は、自分の気持ちにしっくりと来るということであって、読書そのものが楽しいという訳じゃないのであって、私の付きあって来た作家たちは、私に対して、とても難しい問い掛けを次から次へと投げてくる。そして、彼らは、それらの問いを私の生活文脈のなかで考えるように私を見放す──彼らが私に対して なにがしかの ソリューション を直ちに与えてくれた事は かつて一度もなかった、「さて、君 (きみ) なら、こういう事態を どういうふうに観て、どういうふうに描写するか」 としか彼らは問わない。しかも、天才たる彼らの 「表現」 に凡人たる私が並ぶことなどできやしない。それでも、彼らの前では、私は 「正直な態度を強いられる」。
(2011年 9月 1日)