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Did you have to come with swords and clubs, as though I were an outlaw? (Luke 22-52)

 



 小林秀雄氏は、「批評について」 のなかで以下の文を綴っています。

    (略) 専門的鑑賞などというものを誰が持っているのか、誰が
    知っているのか。批評家という人種だけだ。では批評家という
    人種はたしかに持っており、たしかに知っているのか。

     人は煙草に中毒するように文学に中毒する。中毒した世界で
    は批評しようという欲望はすみやかに習慣に化する。この容易
    に気づかない習慣に引きずられて、いわゆる専門的鑑賞という
    ものを知らず識らずの間に作りあげるが、その正体は何かと
    問われても確答する者はない。確答が出来ぬが故にまた破り
    難いこの一種の偶像を頼りに、文学はわれわれの手に支持さ
    れているという錯覚に陥る。さもさも批評をしているような顔を
    しながら、毎月顔をならべる作家たちを、この偶像に会釈させ
    る。相手がほんとうに作家であるかないかは問題にならない、
    会釈する男はすべてこれ作家なのだ。その作るところはすべて
    文学というものなのだ。だから一向平気である。うまいとか
    まずいとか、プロレタリヤ だとか ブルジョア だとか言っている。

     否応なく確定的な鑑賞を強いる名作には滅多に出会えない
    場合、素直に読んでいれば気が散れて文学の事など考える暇
    もないわけだが、そこが何処から持って来たのか知らないが、
    専門的鑑賞眼とやらを備えているお陰で、結構気楽に批評が
    出来る。ここに文芸時評・文芸月評という一見安穏だが仔細に
    みると乱脈を極めた架空の国が出来上がっている。

 科学的領域はべつとして、人文的領域では、小林秀雄氏が述べている様相 (専門的鑑賞眼という錯覚) を多々目にしますね。そして、科学的領域とも人文的領域とも定かでない 「『情報科学』 における事業分析」 でも、こういう珍現象を私は わんさと目にしてきました。

 さて、話を文芸批評に戻して、もし、専門的鑑賞眼などは存しないとすれば、誰もが文芸批評家になることができる、ということでしょうね。尤も、「文壇」 の中で──あるいは、マスコミ の中で──文芸批評家として 「公に」 認知されなければ (generally accepted されなければ)、文芸批評家を称する事は自称になるでしょうね。しかし、誰もが、自称で始めるのではないか。いっそ、「クリティック・スペシャリスト」 という検定試験を導入してはどうか (「いいね!」) [ 勿論、私は、これを皮肉で言っている ]。

 私は、「文学に親しんできたので」、そもそも、「お墨付き」 という証書に信頼を置かない。そういう態度は、当然ながら、高慢だと非難されてきたし、社会の中で しなくてもいい苦労を数多くしてきたのも事実です。しかし、私の そういう態度は簡単に変わりそうもない (笑)──変えるつもりは毛頭ない、そして、変えるには私は すでに老体になった。私のそういう態度が天罰を喰らっても──今まで、そうとう懲らしめられて来ましたが (苦笑)──、それはそれで私の天運であるという覚悟を私は持っている。そして、実物を色眼鏡で観ないという気組みは喪いたくない。

 
 (2011年 9月 8日)


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