小林秀雄氏は、「文学界の混乱」 (「文藝春秋」、1934年 1月号) のなかで、「批評について」 と 「私小説について」 の二篇を綴っています。先ず、「批評について」 、
「文芸復興」 という題をつけようかと思ったが止めにする。
そんな題をつけると、小林秀雄の説によれば、文芸は復興した
そうであるが、などと大真面目で書くのが必度 (きつと) 出て
くるのが馬鹿々々しい。
「純文学再生の呼び声高く、文芸復興のかがやかしい曙が
来るかのように歓喜しているものもあるようだが、自分には
疑問である」 などと、批評家が仔細ありげに書いている。実際
白ばっくれるなと言ってやりたい。一体純文学の再生を叫んで
いるのは誰なのか。文芸復興の歓びを、どこの何という作家が
述べている。文芸復興の曙近しという論文を書いた批評家が
一人でもいたのか。
僕は幽霊の正体をみよ、と言うのではない。要らざる幽霊を
でっち上げるな、と言うのだ。同情するにせよ、軽蔑するに
せよ、何故に二、三の文芸雑誌が増加したという平凡な事実
から、その事実のみからものを言わぬ。弥次馬のこしらえた
幽霊を分析して、枯尾花を見せてくれたり、「非常時」 を見せ
てくれたりして一体誰が感心する。ましてやこの幽霊、実は
弥次馬のこしらえたものではなく、どうやら当の批評家が知り
つつ便宜上発明したものと疑えるに至っては沙汰の限りだ。
想えば批評家気質というもの、よほど奇妙なものである。
毎年十二月に這入 (はい) ると、新聞雑誌の批評欄は、宛然
(えんぜん) この白ばっくれた批評家気質の展覧会たる趣きを
呈する。ああ、今年は多事であったと。嘘をつけ。最も重要な、
あるいは最も繊細な文学的問題を提供したものは君らじゃない
のだ。君たちは提供したというよりもむしろそういう問題を殺して
来たのではないか。
「批評について」 の テーマ は、「文芸復興」 なる「概念」 ですが、この概念を変数 x にしてしまえば、凡そ、「概念」 一般についての危険な罠を弾劾していると云っていいでしょうね。その趣旨は、次の一文で撃ち抜かれています──「僕は幽霊の正体をみよ、と言うのではない。要らざる幽霊をでっち上げるな、と言うのだ」。そして、でっち上げられた 「概念」 群が一人歩きして 「様々なる意匠」 を纏 (まと) う──あたかも、そういう事物が実存するような錯覚を生ずる。
「ぬれほとけ」 (「近世色道論」、日本思想大系 60、岩波書店) に曰く、
迷ひをば意念のなせる業 (わざ) 成 (なれ) ど、教ゆる者も
意念なりけり
科学が進歩しても、人性は昔に較べて さほど変わっていないようですね。
「ぬれほとけ」 から もう一つ、
無を悟る其心こそ可笑しけれ、悟らぬとても無の世界なり
あるがままの世界を見て魂消 (たまげ) て、「それがそうある事態」 を考えるのであれば 「概念」 も地に着いた思考の手立てになるでしょうが、他人の拵えた 「概念」 を験証しないで──自分の生活の中で実感しなければ──「概念」 を多量に脳味噌に貯蔵しても知的愛玩物 (あるいは、「がらくた」) が山積みされた状態でしょうね。「概念」 を持つこと自体は悪いことじゃない、それは一つの 「意味」 を持つことだから。しかし、その 「概念」 が 「真」 であることを証明しなければ──論証して具体例を示さなければ──、自分の意見を構成する命題にはならないでしょう。「論証する」 ということは、その 「概念」 が使われる文脈がある、ということです。そして、その文脈とは、その人の生活空間でしょうね。
(2011年 9月23日)