小林秀雄氏は、「文学界の混乱」 の中で以下の文を綴っています。
様々な問題が無秩序に次から次へと提出されるという事は、
今日のような不安な時代の特色であり、そしてまた、問題が、
甚だ傷つき易い壊れ易い形で提出されるという事が、今日の
様々な問題の特色だ。歪めるにも殺すにも手間はかからぬ。
或る問題が現れる、皆んなが寄ってたかって解決しようと
かかる。ところが当の問題は、解決されようにも問題の形を
まだ成してはおらぬという始末だ。未だ形をなさぬ問題に解決
がある。──文字通り珍妙な事実の写実であって、言葉の
戯れではないのである。
この文を私は Twitter で借用しました。小林秀雄氏が この文を綴った時日は 1934年 (「文藝春秋」一月号) です。現時点から遡って 77年前です。しかし、この引用文で綴られている 「珍妙な」 現象は、今でも まざまざと観られる現象でしょう。ひょっとしたら、現代では、その傾向が いっそう強くなっているのかもしれない──「見える化」 「パターン 化」 「ワークフロー (手続き化)」 「機械化」 などと云う効率性の追求の中で。
亀井勝一郎氏は次の アフォリズム を遺しています。
感動を失ってただ刺激だけを求め、沈黙を失って饒舌となり、
熟考力を失って速断し、自分で自分の言ったことを忘却する。
言語生活が この四つの状態をあらわしたとき、(略) 大人
なら精神錯乱の前兆である。
この意味において、現代では、われわれは精神錯乱の状態に陥っているのではないか。そういう社会の中で自分を見失わないように確 (しか) と立っていることは難しい。私は社会の中の一滴にすぎない──その一滴なる私が自分を見失わないようにする一つの抵抗力は、自分の 「文体」 を持つということでしょうね。私は そんなふうに奮励してきたし、少しずつ実現してきたと思う。しかし、水に同化しない油は水の上に ぽつんと浮かんでいるしかない。
(2011年10月 1日)