小林秀雄氏は、「文学界の混乱」 の中で以下の文を綴っています。
批評家は新規を追うが、瑞々しさを求めぬ。次々に新しい
問題を製造する事を好むが、或る問題を次々に新しく提出
する事を好まぬ。問題を次々に同じやり方で解決して行く事
を好むが、或る問題を次々に新しいやり方で解決する事を
好まぬ。新しい問題、古い問題という概念よりも、問題の
新しさ、問題の古さという概念の方が、よほど取扱いに不便
であるがためなのだ。取扱いの便利な方へ、便利な方へと
われ知らず滑走して行く傾向は、文壇批評家等の強い惰力
であり、伝染し易い悪疾である。この惰力に乗った安易な
批評精神にとっては、問題解決は、問題の提出よりも遙か
に容易となる。いや言葉を強めて言えば、彼らは前もって
解決している問題しか提出出来ないし、そういう手つきで
提出された問題しか解決出来ないのだ。僕はこういうのを
精神労働とは認めぬのである。体裁のいい解決の御陰で、
どんなに沢山の生ま生ましい疑問が葬られ去ったか、問題
の繊細な可能性が中途で進行をはばまれたか、こうして生き
生きとした文学的問題が次々にひからびた文壇的問題に化し
終るのだ。そして言う、ああ、今年は多事であった、と。
痴呆の声でなければ悪魔の声だ。
この文を私は Twitter で借用しました。借用した理由は、ここに綴られている現象は、そのまま コンピュータ 業界の 「事業 システム の分析」 (あるいは、モデル) を論じている界隈に観られるので。
さて、本 エッセー は 「反 コンピュータ 的断章」 向けの エッセー ではないので、話を 「反文芸的断章」 向けに戻しましょう。
先ず、「問題を次々に同じやり方で解決して行く事を好むが、或る問題を次々に新しいやり方で解決する事を好まぬ」──この文の前半は、いわゆる 「科学的な法則」 を (その適用するための前提を無視して、) 様々な事態に対して一律に適用する悪疾を非難しています。私は、そういう悪疾を患った連中を わんさと観てきました──しかも、連中は、悪疾とは毛頭思っていないで、あたかも、事態を すでに見通しているかのごとくに [ 前もって ソリューション を与えられているかのように ]、簡単に [ 連中は 「科学的に」 というかもしれない ] 計らう、「それはね、こうだよ、人生ってそんなもの」 と。ここまで綴ってきて、私は、今、北斎の 「富嶽三十六景」 を思い浮かべました。亀井勝一郎氏曰く、
富士山ほどくりかえし描かれた山はない。あの三角形の
単純なかたちは、たちまち倦 (あ) きられて俗化してしまう。
そのとき、あらためて富士山の新しいすがたを発見するもの
こそ一流の画家だ。たとえば北斎のような富士の眺めは、
それ以前の誰も描かなかった。平凡にみえる自然のなかに、
千変万化の非凡なすがたを発見するのが芸術である。
私は エンジニア を職としているので、一つの事態を形式化する場合に幾つもの無矛盾な アルゴリズム を構成できることくらいは承知しています──ただし、「現実」 は一つです。一つの事実を形式化する際に幾つもの やりかた を考えるのが エンジニア として愉しい。そして、結論に至るためには、真たる前提を立てること [ 問題を定式化すること ] が一番に難しいことを知っています。前提を軽視して(あるいは、無視して) 結論をまるで一つの法則のように適用する態度は、およそ、合理的ではないでしょうね。
「文学青年」 を自称する私は、一つの事態の中に錯雑として這入り込んでいる物を できるかぎり一つも落とさないで観るような性質を持っています。一つの視点に束縛される (あるいは、執着する) ことを私は嫌っています。あらかじめ定立された法則で (事態を) 演繹しない──「演繹できない」 というのが正確な言いかたかもしれない、なぜなら 事態は そのまま存する状態でしかないのだから。豊富な現実を一様にしか観られないというのでは、悧巧じゃなくて、「現実」 を見くびっていやしないか。
(2011年10月16日)