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They will bring in destructive, untrue doctrines,... (1 Peter 2-1)

 



 小林秀雄氏は、「レオ・シェストフ の 『悲劇の哲学』」 の中で以下の文を綴っています。

     「レオナルド と哲学」 のなかで、ヴァレリイ が言う。彼の言葉
    は極めて率直で、少しの皮肉もない。「哲学の広汎な企図は、
    これを哲学者の衷心に這入りこんでみるならば、畢竟私たちの
    知っていることすべてを、私たちの知りたいと欲することに変ず
    る試みという事に存する。そしてこの作業は、或る一つの秩序
    のなかに実現されることを要求するものだ」 と言っているが、
    芸術の広汎は企図は、芸術家の衷心においてこれをみれば、
    哲学の真反対に働く一つの作業ではないのかと考えられよう。
    彼は絶望者等、狂人等の姿をよく心得ている。偏 (ひとえ) に
    現実との直接な取引きによってである。何を知りたいと欲しても、
    既によく知っている現実の姿に、またしてもつれ戻されるので
    ある。普遍的関聯のもとに認識の能力を組上げるというような
    事が、彼にとって認識の積極性を探る道なのではない。

     公平無私な真理探究のために、認識機能の十全を期する
    ために、敢えて、世の格外者ども呪われたものどもを一紮 (ひと
    から) げにして見殺しにする進歩なる仮面を被った人間の残虐
    に、シェストフは憎悪の念を燃やした。 (略) 「誰がこの非人間
    的な務めを身に引きうけるか」 と。非人間的とはにがい反語に
    過ぎぬ。

 こういう文を読むのが私は辛い、、、じぶんの度し難い性質を思い知らされるので。「公平無私な真理探究のために、認識機能の十全を期するために、敢えて、世の格外者ども呪われたものどもを一紮 (ひとから) げにして見殺しにする進歩なる仮面を被った人間の残虐」 の集積物が 「文明」 とか 「社会の規約 (社会性)」 でしょうね。そして、「社会」 は、その規約に従って、構成員たる適格性──「社会の進歩」 に対する適応性──という篩を掛ける。「普遍的関聯のもとに認識の能力を組上げる」──「社会」 の中で同意された規約に従って [ 社会の規約から逸れないで ] 認識する、すなわち社会が進歩するうえで大衆が手にしたいと欲する便益を齎 (もたら) す──「科学的な」 ちから が優遇される。いっぽう、「芸術家の衷心 (真心)」 とは、社会の中で起こる 「特殊な (個々の、特称の) 風景」 に対する誠実主義に立っている。だから、芸術家の意識の中に 「社会と個人」 の論点 (相剋) が生まれる。小林秀雄氏は、「X への手紙」 の中で次の文を綴っています

     遂に、どんな個人でも、この世にその足跡を残そうと思えば、
    何らかの意味で自分の生きている社会の協賛を経なければなら
    ない。言い代えれば社会に負けなければならぬ。社会は常に個人
    に勝つ。思想史とは社会の個人に対する戦勝史に他ならぬ。ここ
    には多勢に無勢的問題以上別に困難な問題は存しない。「犬は
    何故しっぽを振るのかね」 「しっぽは犬を振れないからさ」。
    この一笑話は深刻である。

 「仮面的な (しかし、他人が取って代わることのできない) 個人性」 を、いったい、だれが済 (すく) うのか。社会の徒花が芸術あるいは宗教なのかもしれない。だから、芸術家は明らかに社会に対する抗力として立っている。「社会」 に対して憤怒を抱かないような、そして じぶんの運命に対して懐疑・悲劇を感じないような芸術家は存しないのではないかしら。じぶんの社会的生活をしゃぶって つぶつぶと語るのが芸術家ではないでしょう。私には、芸術は常に 「反社会的 (反現代的)」 な性質を内包した [ 個人性を復活する ] 「作り事」 として映ずる。勿論、その 「作り事」 は 「現実との直接な取引きによって」 構成されて 「現実の姿に、またしてもつれ戻される」──「作り事」 とは 「にがい反語に過ぎぬ」。

 
 (2011年12月23日)


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