小林秀雄氏は、「レオ・シェストフ の 『悲劇の哲学』」 の中で以下の文を綴っています。
文学作品が哲学的理念を担い、哲学大系が文学的 リアリティ
を帯びるのをしばしば私たちは見た。しかしこういう光景が深い
意味を生じたのは、実例に依れば一流文学者、一流哲学者の
場合に限ったのであった。文学みたいような哲学あるいは哲学
みたいような文学を既にあり余るほど私たちが持っている時、
何故哲学と文学との握手を敢えて説かなければならないのか。
レトリック を離れて哲学はない、言葉を離れて理論はない
からだ。整然たる秩序のなかに、どんなに厳正に表現された
哲学大系も表現者の人間臭を離れられぬ。歴史の傀儡 (かい
らい)、社会の産物たる個人の影をひきずるものだ。哲学が
文学に通ずるのは、この影においてのみである。論理的言語
が、精妙であればあるほど、この影は精妙であるはずだ。
尋常な理論は何語にも翻訳出来るが、たとえば ヘエゲル の
理論は恐らく ゲエテ の詩のように翻訳に適せぬはずであろう。
哲学的理論がこの影によって、生彩を得るとしても、それは
哲学者にとって余儀ないものだ。いくら振り捨てようと思って
もつきまつわりついて来る影から来る ニュアンス だからだ。
哲学者は影を追うのではない、影がむしろ彼を追うのである。
彼はただ力の限り修辞学 (レトリツク) と戦って、純理の世界
を目指すだけである。影が哲学者にとってこういう積極的な
意味をもっていないものならば、また傍人がこれにどういう
積極的な意味を認め得よう。ではいわゆる生の哲学はどうだ
というか。勝手に文学と哲学との混血児を製造したらいいでは
ないか。ただ僕にはいわゆる生の哲学が、果たして生の最も
困難な課題への尊敬から起るのか、また単にあくまでも純理を
馳駆する能力の貧弱に由来するのかを判別するのが面倒臭い
のである。そして生の哲学者 ベルグソン の作品に燃えるような
科学精神をみているのが愉快なのである。彼の作品が芸術味
に富んでいるなどと飛んだ洒落である。だが話を混乱させまい。
ウィトゲンシュタイン 氏は、次のように言っています──「哲学は、本来的に、ただ詩作としてのみ書かれるべきである」。そして、その意味は、上に引用した小林秀雄氏の説明を読めばわかるでしょう。私は、小林秀雄氏の説明に足すべき意見を持っていない。小林秀雄氏の天才にただただ敬服するのみです。
(2012年 1月 1日)