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Why do you not judge for yourselves the right thing to do? (Luke 12-57)

 



 小林秀雄氏は、「林房雄の 『青年』」 の中で以下の文を綴っています。

     「作家は作品を書いている時が一番正しい」 とは君の口癖だ。
    しかしそういう言葉には、作家の無意識の自己欺瞞が一番這入
    り込みやすい種類の言葉だ。君は勿論心からそう思っているに
    違いないが、君がああいう言葉の真意に徹しているかどうかと
    なれば疑わしいものさ。だが、これは半ば僕の勝手な言い分で、
    僕のようにえて思い惑いたがる性質は、専心思い惑いたがらな
    ければ自分を活かす事が結局出来なくなる。それは君も承知し
    てくれるであろう。

     例えば ロマン・ロオラン の 「芸術と行動」 (「改造」 四月号)、
    あれを君は読んだか、レエニン が レオナルド とともに、「生命
    の飛躍 (エラン・ヴイタル)」 と結婚するという論文だ。ソヴェト
    に対する妙なお追従も感じられ鼻持ちならぬ気がする。ジイド
    の方が遙かに無器用で見得 (みえ) が少ないし、正直にものを
    言っている。それはともかく、僕はああいう器用な論文乃至は
    論理をつまらぬと思う。現実に関する夢と芸術に関する夢との
    一致、芸術と行動はどういう具合に結合するか、結合しなければ
    ならぬか、そういう問題を、誰にでもわかるように筋をたてて語る、
    そういう仕事を僕は低劣だと思う。生活のないところに芸術はない
    とか、生活意欲と芸術表現との関係はどうだとか、という百千の
    言葉より制作三昧という言葉の方がまだまだましな言葉だと思う。

 私は 「芸術と行動」 を読んでいないので、小林秀雄氏が 「芸術と行動」 に対して綴っている意見を賛同も反対もできないのですが、もし、小林秀雄氏の云うようにそれが 「器用な論文」 であれば、私は小林秀雄氏と同感を抱くでしょう。上の引用文を読んだとき、私は「アシル と亀の子」 の中で綴られている文を思い起こしました。およそ 「精神」 に係わる論述では、「アシル と亀の子」 の中で綴られている文を借用すれば、「仰々しく (颯爽としているという人もあるかもしれない)、同じように粗雑な論理で (簡潔だという人もあるかも知れない)」 綴られた論を私は嫌悪します (侮蔑します)。デカルト の次の言葉も思い出しました──「人が二十年もかけて考えたところを、二言三言聞いただけで、一日でわかったと思い込むような人がいる」。私は、そういう悧巧な人たちを わんさと観てきて──しかも、かれらは頭が良いと自認している そぶり さえ見せてくれるので──うんざりしています。

 書物を或る程度読んで 30歳半ばにもなれば、いっぱしの理屈は言うことができる。しかし、理屈を言う事と自説を言い切る事のあいだには超えられない山が聳えている──自説を言い切る事には、当然ながら、世間に向かって撃つだけの実弾が込められている。I-know-it-all な理屈が空砲であることくらいは大人なら感知している、だから大人は そんなものを聞き流す。「精神 (あるいは、思想)」 を論じた文を読む時に、「簡潔で颯爽とした」 文を私は信用しない。

 
 (2012年 1月23日)


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