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I will sing with my spirit, but I will sing also with my mind. (1 Corinthians 14-15)

 



 小林秀雄氏は、「林房雄の 『青年』」 の中で以下の文を綴っています。

     「青年」 は、雑誌に発表されて以来、いろいろ批評された
    ようだが、そういうものを全く念頭に置かずに、読後、心に
    浮かんだ感じを率直に言うなら、これが林房雄だという言葉
    で僕の心は一杯になってしまったと言いたい。こんな感じを
    読者に与えるのは作者の本意ではあるまい。だがこれが
    読者と作者との食い違いというものだ。この食い違いは、
    特に君のように熱情にかられて仕事をする性質 (たち) の
    作家の場合では甚だしいのであって、傍人の観察参考に
    ならぬとは言わさぬ。

     何が歴史小説だ、林房雄まるだしじゃないか、というような
    乱暴な事を勿論言うのではないが、君が誤解しなければそう
    言っても差支えない。君はよく人の悪口を言うし、人からも
    悪口をよく言われる。そういう喧嘩好き、一般の定評である
    君の好戦的性質というものより、もっと君の持っている別な
    ものに僕は魅力を感じている。君の喧嘩好きは、充分内面化
    された君の性質だとは僕には思えない。君にはもっと明るい
    楽天家の笑いがある。微妙でうまく言えないが、たとえば
    「どうもみんな余程俺の悪口はいいやすいとみえるね、俺に
    はあげ足を取られやすい処があるのだ」 と言って笑う君の
    子供らしい笑顔に、僕は君のもっとも醇乎 (じゆんこ) たる
    性質を見るように思う。ああいう笑顔はぎりぎりのもので、
    知らず識らずの嘘も這入る余地がないからね、これは君の
    美点だ。君がよく知らない君の美点だ。もっとも自分の美点
    をはっきり知っている奴というのも妙なものだが。

    (略) その他君の小説の随処に出て来る通俗小説家めいた
    表現を笑っているのではない。あの通俗性も林房雄だから
    好意がもてるなどというお座なりを言おうとするのでもない、
    僕は君の美点に裏打ちされた君の文章のあるがままの美しさ
    をしかと感じているのである。こんな単純な事がなかなか解ら
    せにくいんだよ、君自身にさえ解らせにくいのだ。

    (略) だが上述の君の感慨にもほんといえば断り書きが要 (い)
    るんだよ。即ちこの感慨の通俗性は作者の作為によるもので
    はないのだ、と。僕の言葉に皮肉を読んでくれるな。僕の言い
    たい事は通じただろう。歴史には記録の証言という重宝なもの
    があるが、告白を保証するものは眼に見えない情熱だけだ。
    偶然の事件の呈する外見の通俗性は、記録の証言によって
    容易に壊れるが、在りのままの告白の呈する外見の甘さに
    けつまずかないためには、直観に頼るより他に術がないのだ。
    誤解されやすいのは君の書いた歴史じゃない、君自身なのだ。

     君は 「青年」 の通俗性を気にしているようだが、一般に通俗
    性というものは センチメンタリズム なしには成り立たぬもの
    だが、君はほんとうに知っているだろうか、君の通俗性には
    センチメンタリズム が絶無である事を。

 見事な批評文ですね、ただただ脱帽します。小林秀雄氏が林房雄氏の知己であって林氏の性質を知っていたとしても、知っているがゆえに批評しにくい半面もあるのですが、作品に顕れた作家の性質を真っ直ぐに撃ち抜いていることを私は感じ取りました。「作家と作品」 を考える (分析する) うえで、上に引用した文は、「シェストフ の 『悲劇の哲学』」 (「反文芸的断章、2012年 1月 1日付) と並んで双美だと思います。「シェストフ の 『悲劇の哲学』」 では 「レトリック (文体)」 が論じられ、「林房雄の 『青年』」 では、「文体に顕れた 『作家の気質』」 (「作品の魅力」) が論じられています。上の引用文を読んで、私は、小林秀雄氏が 「故郷を失った文学」 の中で論じている 「理屈ぬきの魅力」 を思い起こしました。少しばかし悧巧な脳味噌であれば、理屈などいくらでも生産できる。しかし、「世間」 は、それを見破ることに聡 (さと) い。「憎き物 物毎 (ものごと) に、利根 (りこん) さうに吐 (ぬ) かす奴 (やつ) に、久 (ひさ) しうて出会 (あ) ふた。『ちよん/\のちよん』 と囀 (さへづ) る男」 と。(「けしすみ」、[ 「近世色道論」 (野間光辰 編、日本思想大系、岩波書店) 収録 ]。「理屈ぬきの魅力」 は通俗性として顕れるけれど、その魅力が作家の性質がそのままに滲みでたのか、それとも、作家が 「作品」 として構成したのか、、、そのふたつの仕切りは存するのか [ 当然ながら、存しない ]。小林秀雄氏は、次の名文を遺しています。

    私は、詩人肌だとか、芸術家肌だとかいふ乙な言葉を解しない。
    解する必要を認めない。実生活で間が抜けていて、詩では一ぱし
    人生が歌えるなどという詩人は、詩人でもなんでもない。詩みたい
    なものを書く単なる馬鹿だ。

 「魅力」 について、吉田秀和氏 (音楽評論家) の次の ことば も思い起こしました。

    フルトヴェングラーという音楽家で特徴的なのは、濃厚な官能性
    と、それから高い精神性と、その両方がひとつにとけあった魅力
    でもって、きき手を強烈な陶酔にまきこんだという点にあるので
    はないだろうか。

 批評文で言えば、「批評みたいなもの」 を書く悧巧な連中が 「理屈」 を生産するのでしょうね。「作品」 には、作家の思い (「魂」 と云っても 「精神」 と云っても同じだと思うのですが) が込められている。それが 「理屈ぬきの魅力」 となるかどうかは作家の腕次第でしょう──こんな単純な事は、ふだんの生活の中でも、他人 (ひと) が言っていることを判断するときに われわれは感知しているでしょう。私は、思想のことで ザッと言うのが一番に嫌いです。

 
 (2012年 2月 1日)


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