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...began to talk in other languages, as the Spirit enabled them to speak. (Acts 2-4)

 



 小林秀雄氏は、「林房雄の 『青年』」 の中で以下の文を綴っています。なお、説明の便宜上、それぞれの段落に数字を付与しておきます。

    [ 1 ]
     客観的手法なるものは近代文学の最大の発明である。だが
    この手法の弱点は、というよりもむしろこの発明が齎 (もたら)
    した大きな欺瞞は、客観描写の存するところに人生が存する
    という打勝ち難い錯覚なのだ。小説家が自家の表現は歴史的
    表現より遙かに現実に近づいていると思いこむ気の利かない
    恐悦なのだ。この恐悦が、小説は一つの架空な世界の創造
    であるという大胆な認識を無意味に恐れさせているのだと
    僕は考える。近頃 リアリズム の様々な種類が流行している。
    主体的 リアリズム だとか社会主義的 リアリズム だとか、
    否定的 リアリズム だとか。

    [ 2 ]
     ところでどれか選んでくれと言ったら君は困るのさ。困らな
    かったら作家じゃないからな。僕はこういう様々な探究を
    決して軽蔑しない。それどころか悪足掻 (わるあが) きをし
    ている批評文の方が先ず近頃の大概の小説よりも溌剌とし
    ているとも言えるんだ。が、それはそれでいいとして、君は、
    これらの リアリズム 上の探究の裏に、リアリズム 即現実
    という抜き難い頑固さが流れているのを看取しないか。頑固
    さはまた文学は現実を模倣するという自然派以来の臆病な
    思想でもあったのだ。従ってそんなものは現実には決して
    ないのだよ。(略)

    [ 3 ]
     何故に人々は、作家は架空の世界を自在に創造するもの
    だ、しなければならなぬものだという自覚を怖れるのか、
    作家は現実の再現を企図すべきではない、現実の可能性
    の上に創造を行うべきだ、という自覚を何故に恐れるか。
    僕のいうところが果して浪漫派の寝言かどうか、君一つ判断
    してくれ。

    [ 4 ]
     リアリズム とは、あくまで文学的 リアリティ に徹する道だ、
    いや文学的 リアリティ そのものの深い自覚に他なるまい。
    リアリズム を現実に肉迫する武器のように考えていたのでは、
    限りなく リアリズム の種類が増えるだけの話だろう。バル
    ザック のように、自分の夢は現実よりもっとほんとうだ、と
    いう処まで行かなければ、あるいは行こうとしなければ、
    バルザック 的方法も リアリズム 的手法も空言であろう。

    [ 5 ]
     自然は芸術を模倣するという ワイルド の有名な言葉には、
    惟うに当人が自覚していたより遙かに正当な意味があるのだ。

 上の引用文で述べられている意見を私は実感をもって賛同します。ただし、私が賛同している理由は、「文学」 に於ける 「作家の自覚」 (段落 [ 3 ] ) に関する小林秀雄氏の所感に賛同したのではなくて──私は文学者ではないので、文学上の事を云々できるほどの才識を持っていない──、私の仕事に於いても、小林秀雄氏が述べている事に似た現象 (段落 [ 2 ]、段落 [ 4 ] ) が観られるので同感を覚えた次第です。

 私の仕事は、現実的事態 (事業 プロセス) を形式化する [ モデル を構成する ] 事です。したがって、小林秀雄氏の指摘している 「作家は架空の世界を自在に創造するものだ、しなければならなぬものだという自覚を怖れるのか、作家は現実の再現を企図すべきではない、現実の可能性の上に創造を行うべきだ、という自覚を何故に恐れるか」 という事は そもそも 論外です──当初から排除しなければらない [ 仕事に中に持ち込んではいけない ] 自覚です。しかし、リアリズム に関する小林秀雄氏の洞見には讃歎します──だから、私は これらの引用文を借用して、Twitter (@satou_masami) で 「モデル の リアリズム」 をつぶやきました。私が Twitter でつぶやいた文は、次の文です。

    リアリズムとはエンジニアにとってエンジアリング的実存性
    (reality)に徹する自覚のことではないか。現実に肉迫する
    ためにリアリズムを意識するのじゃない、現実に肉迫する
    ツールは、エンジニアにとってロジックである。エンジニアの
    リアリズムは、現実に較べて現実的でなければ嘘である。

 リアリズム について、他にも三つほど つぶやいていますが、本 ホームページ の Twilog (Twitter の履歴) の 「ツイート 検索」 を使って遡及してみて下さい。

 われわれは現実的事態をモデル化するが、それは現実のなかで流れている確かなものを静かな「論理」を頼りにたぐり寄せて、なんとかして われわれにわかるものにしたがっているからでしょう。そして、頭の中の はかない映像と定まらない遠近をもつ想像で以て概念図を描くことはモデルを構成する事ではない。モデルでは、結論のなかに見出されるものは、すでに前提のなかにあるのです。私の仕事では、「現実」 を グラフ として構成する事が責務なので、「文学」 に於ける 「表現」 は御法度ですが、私のそういう仕事から 「文学」 を観れば、たぶん、私の仕事は言語表現の多様性を抑止しただけであって──ことば を一意な記号と見做 (みな) しているのであって──逆に 「文学」 の特性を見やすいようです。そして、興味深い事には、モデル でも、「形式」を眺め「関係」を見るたびに、現実的事態のこのような構成は他の可能態になりえたことに想いを馳せる事になります。モデルを構成することは「現実」を実感することです。これ以外にモデルの役割はない。「反文芸的断章」 (2012年 2月16日付) の中で、「文学青年」 的 エンジニア の悩みを綴りましたが、いっぽうで、「文学青年」 的 エンジニア であるがゆえに、モデル の性質を看取しやすかったのかもしれない。

 
 (2012年 2月23日)


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