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Your conduct among the heathen should be so good that... (1 Peter 2-12)

 



 小林秀雄氏は、「林房雄の 『青年』」 の中で以下の文を綴っています。なお、説明の便宜上、それぞれの段落に数字を付与しておきます。

    [ 1 ]
    (略) 作家実践上の或る種の冒険や無法を例外的なものと
    見做したがるのが間違いのもとだと思う。

    [ 2 ]
     誇張して言えば時代意識などという常識に色目を使いな
    がら、誰が魅力ある作品を書いたか、と言いたい。批評家と
    として穏やかならぬ言辞というなかれ。穏やかならぬ言辞
    ほど無害なものはない。何故って黙殺という手があるでは
    ないか。批評家というものは、批評家だけに限らないが、
    単純な命題を好まぬものだ。僕も好まなかった。近年この
    事がはっきり分って来たような気がする。好まぬというの
    はごまかしなのだ。実は恐 (こわ) いのだ。命題は単純な
    ほど現実的だしごまかしが利かぬ、そこが恐いのだ。

    [ 3 ]
    (略) 例えば文学における政治の位置というような複雑な
    逃げ道のどこにでもあるような問題では、人々は問題の
    複雑をいい事にして嘘のつき合いをやる。(略)

    [ 4 ]
     そしてもっと言いたかった事は、ああいう懐疑の陶酔から
    さめて、文学とは何か政治とは何か政治家たるべきか文学
    者たるべきか、という恐ろしい問題に躍りかかり、これを
    究明しようとした批評家が作家が一人でもいたか。

    [ 5 ]
     問題をすぐ解決せよとは言わぬ。一体転向という事は人
    が人間としての懐疑を味わう絶好の チャンス じゃないか。
    惜しい事さ、みんな チャンス を逸してる。泣き言を宣言し
    てみたり、小説にしてみたり、あるいは一と理屈すけて納
    まってしまったり。

    [ 6 ]
     君は 「政治か文学か」 という論文を書いていた。景気は
    いいが曖昧なものだ。もっとも元来君は正確な男じゃないの
    だから曖昧結構だ。だがあの問題はあれで終るまい。今後
    も君を苦しめるであろう。しかしいつも君を欺瞞から救ってい
    るものは君の率直と楽天的な実にまんまるい君の心だ。

    [ 7 ]
     あの論文にしたってああいう面倒な問題をつかまえて、
    誤解を怖れずに子供らしいほど素直な意見を発表した人が
    いわゆる左翼の作家批評家のうちにいるのかねえ。僕は
    よく知らないが。

    [ 8 ]
     最後に再び 「青年」 を読ましてくれた事を謝する。実に
    気持ちがよかったのである。いささかの ケチ 臭いものも、
    吝 (しみ) ったれたものも、小 (こ) ざかしいものも、ない。
    懐疑も渋面もない、感傷もない、あの底抜けの明るさは深く
    僕を動かした。君は才人だ、しかし 「青年」 だけは心でかか
    れている。

 上に引用した文は 「林房雄の 『青年』」 の中で最後のほうに綴られている文で、ふたつの論点がふくまれています。論点の一つは、「文学者のありかた」──段落 [ 1 ] から 段落 [ 5 ] まで──、そして二つ目は林房雄氏の気質 (と 作品 「青年」 の読後感)──段落 [ 6 ] から 段落 [ 8 ] まで──。

 さて、私 (佐藤正美) は、段落 [ 1 ] から段落 [ 5 ] までの論を私の Twitter で借用しました。特に、段落 [ 2 ] は、「批評家」 という語を 「システム・エンジニア」 に置き換えれば、そのまま システム作りの 「分析」 に流用できる文です。いくつもの脱路の存する高級な命題を論じていれば、竟に収まりはつかないでしょう──たとえば、「民主主義は正義か」 とか、「愛は美しい」 とか。ところが、そういう高級な命題を論じていると、「本質」 みたいなものを論じているように錯覚する。本来、命題を論ずるはずの エンジニア でさえ、その罠に陥りやすい──曰く、「事業の要の物は云々」 とか、「事業の あるべき姿は云々」 と。テーマ の範囲を絞っただけでは不充分なのである、その範囲の中で論じられる 「概念」 は真偽を験証できる単純な命題として立てられなければ論にならない。私は モデル (の規則) 作りを仕事にしてきたので、幸いにも 「命題は単純なほど現実的だしごまかしが利かぬ」 ということを実感しています。このことは、私が若い頃の小林秀雄氏に較べてすぐれているということじゃないのであって、「情報科学」 の仕事の前提として そもそも もとめられているからです。逆説に響くかもしれないのですが、論理規則 (形式言語) から 「現実」 までの距離は、「概念」 から自然言語までの距離ほど遠くはないのです。というのは、命題 (叙述文) は、真偽を判断できる文に限られ──真偽を一意に問えない命題は ロジック の対象にならないので [ たとえば、「愛は美しい」 という文は 「情報科学」 のうえで命題ではない ]──、一つの複合命題は、有限個の単純命題から構成されていて、それぞれの単純命題 (叙述文) の真偽を験証できるので。

 「転向」 (段落 [ 5 ]) という体験を徹底的に凝視して、その後の人生を再生した人物の一人が亀井勝一郎氏です。彼の作品の多くは私の愛読書です、私は彼の全集を所蔵しています。彼は 「文芸批評家」 と称されることが多いのですが──小林秀雄氏もそう称されることが多いのですが──、その範囲には収まらない仕事をしました。小林秀雄氏も亀井勝一郎氏も、「みずからの精神を凝視し続けて、みずからの人生を問い続けた」 批評家だと私は思います、だから私は彼らに惹かれる。そして、勿論、彼らは 「芸術」 を愛していました。ただ、私は二人の仕事を文学上で眺めているのではなくて、それぞれの個性が人生の中でいかに思考して、いかようにして自らを育て、「文体」 を いかに調 (ととの) えようとしたのか を知りたいので愛読しています。二人とも、颯爽と簡潔に ソリューション などを与えない批評家です。だから、彼らの作品を読むという事は、彼らの求道をいっしょに歩くという事です。二人の作品を読んでいると、いつも、「さて、君は どう思う」 と問い返される。

 段落 [ 6 ] から段落 [ 8 ] について、私は林房雄氏の作品を読んでいないので、小林秀雄氏の意見を賛同も反対もできない。ただ、段落 [ 7 ] について、斜にかまえた [ 気を衒った、あるいは気の利いた、あるいは 「様々なる意匠」 を纏った ] 意見を披露したがる人たちの中で、「素直な」 思いを述べることは 「素朴」 と侮られて、なかなか相手にされない。

 私は息子たちが小さいときに色々な質問をしてくるのを煩わしいなあと感じたことが多かったのですが──たとえば、「どうして雪が降るの」 「どうして夜があるの」 「どうして風邪をひくの」 などなど──、つらつら考えてみれば、これらの質問は事態の 「しくみ」 を説明しなければならないので うやむやに言い抜けができない、だから煩わしいと私は思ったのでしょうね。そして、我々は 「大人」 になって、そういう 「素直な」 眼を曇らしてしまったのでしょうね [ その理由は様々存するのでしょうが ]。しかし、現実的事態を観て魂消 (たまげ) て 「事態が そのように現存するのは、いかなる理由 (あるいは、原因) か」 と考える、その感嘆・思考こそが現実的事態を再構成する──その再構成された物は、文学作品であろうが科学的 モデル であろうが──「大人」 の特性ではないかしら。子どもは、事態を観て素朴に感嘆しても、事態が現存する理由を考えない [ 考えることができない ]。逆に、そういう感嘆を、そして感嘆に促される思考を喪った 「大人」 は私には薄気味悪い生物にように思われます。たとえば、温和しい、willing な [ 指示されるのを待っている・御しやすい優等生な ] 「大人」 の のっぺりとした顔顔顔が並ぶ集団を想像してみて下さい。身の毛が弥立 (よだ) つでしょう。感嘆と思考は、もし それらが正しく作用していれば溌剌とした──「いささかの ケチ 臭いものも、吝 (しみ) ったれたものも、小 (こ) ざかしいものも、ない」──相貌を作ると私は信じています。そして、私は、溌剌とした顔を持っていたいと切に希 (ねが) っています。

 
 (2012年 3月 1日)


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