小林秀雄氏は、「『紋章』 と 『風雨強かるべし』 とを読む」 の中で以下の文を綴っています。
シェストフ の表現の心理的に鋭いところが、読者を魅する
らしいが、彼の論理は意外に単純であると、三木氏はその
単純な種を明かしてくれるのだが、一体思想というものに
そういう種のようなものがあるのだろうか。僕には信じら
れない。種が見つかったとしても、みんな同じような恰好
をした種ではあるまいか。三木氏の見つけた種は、必ずし
も シェストフ の種でなくとも差支えあるまい、ハイデッガア
の種でもいいだろう。その点、思想というものも物質と少し
も違った処はない、核心を核心と究明して行けば、やくざな
ものしか残らないのである。
シェストフ が 「悲劇の哲学」 を書いた時、ロシア の社会
は絶望と不安とに苦しんでいた。そういう社会的条件が彼
の思想を生んだには相違ないのであるが、また彼が進んで
こういう社会的条件の犠牲となったればこそ、彼の思想が
人間化した表現となって現れたのだ。思想というものの発生
にはいつもこういう二重の意味があるのであって、例えば
現代の小説に現代社会の不安が反映しているという事実と、
或る現代小説が現代の不安を表現しているという事実とは
自 (おのずか) ら別事なのだ。
前段は、「汎化」 の陥りやすい罠を明らかにしていますね。こういう罠は、現実的事態と直に向きあって仕事している人たちには当に見え透いた罠であって、今更、私がどうこうと述べるまでもないでしょう。しかし、いっぽうで、「現実」 を重視する人たちでも 「汎化」 をからっきし無視することもできないでしょう。小林秀雄氏が他の エッセー で綴った文を借用すれば、「この世界を信ずるためにあるいは信じないために、どんな感情の システム を必要としているかという点だけだ。一と口で言えばなんの事はない、この世界を多少信じている人と多少信じていない人が事実上のっぴきならない生き方をしている」 (「X への手紙」)。われわれは、その世界を全部肯定も全部否定もできない。全部肯定に立てば、個人など存在しなくてもいいし、全部否定に立てば、物事を考えることができない──だから、「多少」信じている人もいれば、「多少」信じていない人もいる。(自然法則を除けば、) 「汎化」 が完全に成立する事はないのですが、文を綴っている時に うっかりしていると、「汎化」 は物事を見通しているという錯覚を起こして、総括的箴言として私も綴りたくなる。特に批評の中では、「汎化」 が鎌首を擡 (もた) げやすい──たとえば、「人間っていうのは云々」 「人生っていうのは云々」 「ビジネス っていうのは云々」 「そういうものだョ (Such is life)」 等々。
「汎化」 の危ない例を一つ、「女っていうのは、些細なことと重大なことを混同して、ものごとの本質を掴めない」 「そうですかねえ、、、私の上司は女性だったけれど、事態を観て判断を下すのが的確だったし、私をそうするように指導してくれましたがね」 「そういう女性もいるが、多くの女は、そうじゃない」 「多くって、どのくらいの数ですか」 「屁理屈を言わないでくれ、私は一般的な 『傾向』 を述べているのだ」 「その一般的 『傾向』 こそが、私には やくざなものに見えるのです!」。相手が総括的箴言を多用する人物かどうかを私は注目していて、「汎化」 を多用するような ヤツ なら、たとえ その人物が悧巧でも私は その人の言を信用しない。
そう言えば、最近、ラジオ の ニュース 番組で奇妙な報告を聴きました──「それぞれの学級で、1.9人が風邪をひいていることになる」。この数値をどう判断すればいいのかしら、、、0.9人というのは、一人前じゃないということかしら。1.9人と 2.1人では、これらの数値の違いをどう判断すればいいのかしら。私の Twitter の数は 1.9件/日だそうです、0.9 っていうのは、一つの ちゃんとした論になっていないということかしら、、、そうであれば私は反省しなければならない [ 勿論、「平均値」 の こういう使いかたに対して、私は皮肉を綴っています ]。
「現代の小説に現代社会の不安が反映しているという事実と、或る現代小説が現代の不安を表現しているという事実とは自 (おのずか) ら別事なのだ」──環境からの影響がその人の所為の中で無意識に現れる事と、本人がその影響を意識して (すなわち、凝視して) 見極めようとしている事は、作用・反作用のごとくに べつ物です。同じように、「汎化」 された社会的傾向を述べる事と自分をその渦中に置いて事態の次第を自分で実験して凝視する事は、べつ物でしょう。その態の違いは、その人が綴った 「文体」 を見ればわかる。「私は、『客観的な』 文を綴るようにしているのであって、『個性』 的な文は論説を阻害することになる」 「『客観的』 というのは、文の構成が 『論理』 のうえで立てられているということです! 雑な 『汎化』 のことじゃない」。
(2012年 3月 8日)