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they tore their clothes and ran into the middle of the crowd, shouting... (Acts 14-14) |
小林秀雄氏は、「『紋章』 と 『風雨強かるべし』 とを読む」 の中で以下の文を綴っています。
シェストフ の表現に悪い意味で文士風なところが目について
だが身を横たえるという事は、どんなに難しい事だろう。誰が 見事な批評ですね──ただただ私は脱帽するしかない。私が今まで読んできた天才たちはすべて、小林秀雄氏が批評している態──大胆に身を横たえた (そして、自らの感性・思考を晒した) 態──を貫いていた人物です。私のような凡人が、天才の やりかた を真似るなら、およそ、天才の技術を真似ることなどできないので、せめても、天才たちのこの態度を倣 (なら) いたいし、私は今までそうしてきたつもりです。否、そういう言いかたは論点先取りになっているかもしれない、正確に言えば、そういう態度を私に感じさせた天才たちを私は愛読して来たのでしょうね。ただ、私のような凡人が、天才のそういう態度を倣えば、「この身を横たえる事の難しさ、つらさが第一に心に来た」 ことを痛感しています。そして、私が天才を倣う猿真似は、「高慢さが芸になっていない」 というふうに ウェブ で非難される羽目になったのでしょうね。しかし、たとえ猿真似であっても、私が 「自分を晒す」 ことは私の著作や本 ホームページ の 「反文芸的断章」 を読んでいただければ、いかほどに実現できて、いかほどに及んでいないかは明らかだし、「高慢さが芸になっていない」 と批評して いっぱし批評家ぶっていることに較べたら、(私の高慢な性質などどうでもいいのであって、) 私の意見を真っ直ぐに批評できない人が私の覚悟を感知できる訳などないでしょう。私が 「本気で」 反論したくなるような批評を綴ってほしい──私は今までそういう批評 (非難?) に御目に掛かった事がない。いかなる物かを調べるために、それに直接に触れないで、棒で ちょこちょこと突くような惚けた感想に対して私は相手をする気にもなれない。 「作家というものは不安の究明者でもなければ、解説者でもないというそのつらさが」──私は エンジニア として、この文を じぶんが立っている領域で考えてみました。学問の理論を探究する人を私は尊敬します。事業において成功をおさめた人に私は敬意を払います。だが、学問も事業も選ばずに、それらのあいだに立って、学問的理論を実務的技術に翻訳する人を私は愛する──エンジニア であることの、言い替えれば、学問と実務とのあいだに身を沈める (沈潜する) ことの矜持と辛さを私はつくづく味わっています。 |
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