小林秀雄氏は、「『紋章』 と 『風雨強かるべし』 とを読む」 の中で以下の文を綴っています。
社会の混乱がはっきり見えて来るには社会の混乱から生まれた
思想が混乱に鍛錬されるための時間を要するのだ。弾圧や転向や
不安や絶望が思想を鍛錬するのである。鍛錬された思想が今社会
の混乱をいよいよ判然と眺めさせる。だから見給え、ブルジョア 作家
も プロレタリヤ 作家も現代世相を描こうとして今始めてその極度
の困難を自覚しているのだ。リアリズム の問題が新しく論じられ
るのはこの故である。長篇と短編の問題の新しさもまたここに起
こるのだ。
観念上の混乱に苦しんだ自己探求者が世相の混乱に鈍感であっ
た事は見やすいのであるが、かようなものをはじめから蔑視した
プロレタリヤ 作家の眼にも決して今日の世相の奇怪さは見えな
かったのだと僕は信ずる。
今日の世相を正しく視 (み) るには マルクス の思想が必要だ
という、しかし彼らの辿ったものは今日の世相ではなくむしろ世相
を整理する思想であった。彼らの作品の不備は公式的な思想の
適用にあった、あるいは作品技術の未熟にあった、伏字の強制に
あった、等々の理由とともに、また彼らが今日の世相の奇怪さを
ほんとうに見ていなかった処にもあった。プロレタリア 作家の大
多数が若い知識階級人であった事を思えば、この知識階級人
一般の運命は逃れる事が出来なかったのだ。知識階級の作家
等は、文学のうちに突然這入 (はい) り込んで来た思想という
ものの扱い方で惑乱したのである。人間のうちに思想が生き死に
する光景は僕らにとって充分に新しい驚くべき光景だったのだ。
例えば マルクス の思想によって現実を眺める事は出来たが、
その思想に憑 (つ) かれた青年等の演ずる姿態の生ま生ましさが、
自分の事にせよ他人の事にせよ、ほんとうに作家の心眼に映る
のには時間を要したのである。思想に憑かれる事によって、作品が
思想の宣伝として成功した場合、僕らはそこに新しい リアリティ が
生まれたと誤信したし、失敗した場合はせいぜい公式的だとか、
人間が描けていないとか言って済して来た。思想を使用して現実を
観察したり、自己を分析したりするのに精一杯だった僕らは、思想
を抱いたあるいは思想を強いられた僕ら自らの顔の表情に関して
は、どうしようもない鈍感を持して来たのである。
小林秀雄氏が この文を綴った時は 1934年で、今から約 80年前ですが、私は この文を読んで今でも私の働いている コンピュータ 業界で同じ様な現象が見られる事を感じました──「彼らの辿ったものは今日の世相ではなくむしろ世相を整理する思想であった」、この文は 「モデル」 を謳っている SE たちが 「突然這入 (はい) り込んで来た思想というものの扱い方で惑乱したのである」、そして 「思想を使用して現実を観察したり、自己を分析したりするのに精一杯だった僕らは、思想を抱いたあるいは思想を強いられた僕ら自らの顔の表情に関しては、どうしようもない鈍感を持して来たのである」。この文を借用して Twitter の つぶやきを 2つか 3つほど綴ることができるでしょうね。
当時に較べて現代は テクノロジー が進歩して、我々は スマホ や タブレット を携帯して 「情報」 を (電波が届く範囲であれば、) いつでも入手できる便利な時代で生活しているけれど、「思想」 に対する対応は さほど進歩していない様ですね──ひょっとしたら、退歩しているのかもしれない [ この点については、前回の 「反文芸的断章」 を ご覧下さい ]。
「(日常生活を送るうえで) 『思想』 を持て」 と放言するような僭越さを私は更々持ちあわせていないのですが、少なくとも、じぶんの専門領域において、なんらかの言説を前提にした技術 (あるいは、理論) に関して意見を述べるのであれば、「思想」 を避けて通れない事を言いたいのです。専門外の技術・理論に関しては、そこまで丁寧に検討吟味する余裕はないので、せいぜい、技術・理論を使った時に感じた印象を述べるに止まるでしょう [ 専門家の意見に並ぶほどの所見を述べられるはずもない ]。逆に言えば、仕事の中で育んだ 「思想」 を持っているという事は、専門家の証しになるのかもしれない。他人 (ひと) の思想を あれやこれやと食いちらして コピペ (コピー & ペースト) して いっぱし意見を述べても、ちゃんとした文脈を持っている訳じゃないので、聴き手 (あるいは読み手) は白々しさを覚えるでしょうね。文脈を持った思想が迫力 (あるいは、存在感) を感じさせるのでしょうね。「思想」 は持とうとして持てるものじゃない、仕事の中で翻弄されて苦しみながら じぶんを実験台にして身証して養われるものでしょう──だから、思想には生々しさがあるし、一つの思想が生まれるには長い年月の胎動期が存する。促成で育つものじゃない。「思想を抱いた、あるいは思想を強いられた僕ら自らの顔の表情に関しては」、本来、鈍感でいられる訳がない。
(2012年 4月 1日)