小林秀雄氏は、「『紋章』 と 『風雨強かるべし』 とを読む」 の中で以下の文を綴っています。
一と昔前の作家にとっても、現実は今日におとらず充分に複雑
なものであったろう。だから人生が人間にとって単純だった事は
古来ないのであろう。ただ思想とか観念とかというものに強く攪拌
(かくはん) された新しい文学意識が、今日の作家に新しい複雑さ
を視る事を教えたのだ。例えば僕らはもはや自然主義作家等の信じ
た個人という単位、これに附属する様々な性格規定を信ずる事が
出来ない。それというのも個人を描かず社会を描けという理論に
よって信じられなくなったのではない、僕らがお互いの性格の最も
推測し難い時代に棲んでいるという事実から信じられなくなったの
である。性格は個人のうちにもはや安定していない。それは個人と
個人との関係の上にあらわれるというものになった。性格とは人と
人との交渉の上に明減する一種の文学的仮定となった。という事実
は、恐らく文学を知らぬ今日の不安に苦しむ多数の生活人が自ら
体得しているものではあるまいか。これに最も鈍感なのはかえって
文学業者ではあるまいか。(略)
この人間の性格に関する文学的仮定の変動、言葉を代えて言え
ば、一つの視点から多数の人間を眺めるのではもはや足りず、互に
眺め合う人々の多数の視点を作者は一人で持たねばならぬ。そう
いう一事だけでも現代の短篇小説の可能性はぐらつくのではないか
と思われる。
とても難しい文ですね。一読して意味を把握できる人は ほとんどいないのではないかしら。なぜなら、「性格の最も推測し難い時代」 の中で作家 (短篇作家) は作品の可能性に戸惑いを感じているし、文学業者は鈍感になっていて──小林秀雄氏がそう推測するのは、(当時の) 作品を多く読んでの事でしょうが──、文学に携わっている人々さえ事の次第を把握していないので。ただ、「文学を知らぬ今日の不安に苦しむ多数の生活人」は、文学的仮定の変化を 「自ら体得している」 のではないかと小林秀雄氏は推測しています。変化した文学的仮定とは、「性格は個人のうちにもはや安定していない。それは個人と個人との関係の上にあらわれる」 ということ。ここまでなら、たぶん、だれでもが文字通りに把握できるでしょう──私も、ここに綴ったように、その通りに把握できました。しかし、全体の意味が私には把握しにくい。その理由は、次の文の意味 (この文脈での中核の概念) がわからないからでしょうね──「性格は個人のうちにもはや安定していない。それは個人と個人との関係の上にあらわれる」。
「性格は個人のうちにもはや安定していない」 という文での 「性格」 は 「個性」 という意味として考えていいのではないかしら。すなわち、一つの個性の視点で作品を制作する [ 制作できる ] という時代じゃなくなっている、と。そうなった理由は、個性は「社会 (一つの関係)」 の中で割り当てられた分業の機能を果たす変数にすぎなくなった、と。もし、文学が (小説に限って言うのですが) 現実から借りてきたものを現実に返す性質を持っているのであれば、文学 (とりわけ、私小説や短編小説) が成立し難 (にく) い時代になったということでしょうね。
確かに、そういう現象は 「文学を知らぬ今日の不安に苦しむ多数の生活人」 は体得している。というのは、社会の中で営まれる仕事が細分化・専門化して、個性を全人的に投入できる仕事 [ 昔は、それを天職と云っていたのですが ] は現代では ほとんどないので、一つの強い個性が一つの閉じた大きな体系的仕事を完遂できる時代じゃなくなっている。昔の人物に較べて、現代人が小粒になったと云われることが多いのですが、それは社会構造のうえで当然の帰結でしょうね。そして、そういう社会背景では、個人を立脚点にした 「思想」 は嫌われるでしょう。そういう テクノポリス 的社会 (関係) の中で重視される性質は、変数としての代入値を持っていること、すなわち なんらかの意味で テクノクラート [ 一つの機能 ] であることが存在理由とされるでしょう。しかし、「文学青年」 的 エンジニア [ 私のこと ] は、(そういう社会的機能を果たしながらも、) 単に一つの機能として評価されることを良しとしない、自分の技術の中に自分を全人的に注ぎたいと希っています。そして、そういう思いは、社会に適応できないことも重々承知のうえで仕事をしています──勿論、個人は社会に負けることも重々承知のうえで。
(2012年 4月 8日)