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We spent our lives in malice and envy; others hated us and we hated them. (Titus 3-3)

 



 小林秀雄氏は、「文芸時評について」 の中で以下の文を綴っています。

     文学的 リアリティ という言葉は大変曖昧な言葉である。だが
    多くの言葉は、曖昧なるが故に生き生きとしているものであって、
    文学的 リアリティ という言葉にしてみても、その概念性が明瞭
    になってしまったら、人々の心のうちに生きるのを止めてしまう
    であろう。(略) 読者は作品の リアリティ の言わば濃度とも称す
    べきものを識別するのに、先ず自分の血肉のうちに、長い伝統に
    よってはぐくまれた或る鋭敏な指針に頼るのである。この人間の
    内奥にある指針を人為的に動かす事は至難なことだ。また至難
    だという事は、この指針が各人のうちに別々に慄えていながら、
    先ず大たい同じ目盛りを指している、指さざるを得ない証拠でも
    ある。

     例えば、「春琴抄」 という作品が現れる。取りまく批評は一見
    各人各説だが、何んの事はない、よく見れば、「古いけど面白い」
    派と 「面白いけど古い」 派に別れて、さっぱりしたものである。
    何がこうさっぱりとさせてくれるのか。「春琴抄」 という作品その
    ものの力がだ。その リアリティ が極めて濃密であるという事は
    何人も首肯せざるを得ない。その首肯せざるを得ないという鑑賞
    上の整然たる秩序がだ。つまりこういう作品は批評する際に、
    どういう立場からものを言おうとするにせよ、一応作者の方から
    人々を同じ土台の上に招集してくれるのである。何を言っても
    構わない、だが先ずこの美しさをとくと眺めてからものを言え、と。
    (略)

 んー、スゲー (見事な) 分析ですね。後段で綴られている文を、私は私の Twitter で借用しました。後段の趣旨は、文学作品に限らず (私が仕事している) 「情報科学」 の領域で 「古典」 と称される論文にも見られる性質です──「批評する際に、どういう立場からものを言おうとするにせよ、一応作者の方から人々を同じ土台の上に招集してくれるのである。何を言っても構わない、だが先ずこの美しさをとくと眺めてからものを言え、と」、ゲーデル 氏の論文 然り。そして、こういう首肯せざるを得ない 「鑑賞上の整然たる秩序」 を疎かにして批評を装っている [ 独我的な嗜好を述べている ] 惚けた感想を聞いて──たとえば、「ああいう理論は、我々 エンジニア には関係ない、ああいう理論を学ぶのは衒学趣味だね」 などという感想を聞いて──私は苦笑せざるを得ない [ そういう感想しか言えぬ人の才識を疑うしかない ]。理論を云々するほどの ちから を持っていると自負していて、ゲーデル 数は コンパイラー であるという事をわからぬ エンジニア の思考力を私は疑わざるを得ない。難しい理論がわかないなら、わからないでいいが、そうであれば黙っているのが 「知性の節度」 でしょう。天才が示した難しい理論に対して我々凡人がぶつかってゆけば、こっちが粉砕されるに決まっている。しかし、そういう戦いの中でしか批評はできない筈です──勿論、そういう批評は、自分が天才たちに対して挑んだ冒険に関する批評です。エンジニア と称するのであれば、エンジニア としての 「内奥にある指針」──職業上の 「長い伝統によってはぐくまれた或る鋭敏な指針」──を持っていなければ嘘になるでしょう。

 
 (2012年 4月16日)


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