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...and defiled this holy place! (Act 21-28)

 



 小林秀雄氏は、「文芸時評について」 の中で以下の文を綴っています。

     「文藝」 十一月号に広津氏の 「人物の ステロタイプ 化に
    について} という文がある。自分の才能を棚に上げるわけでは
    ないが、と断わって、「風雨強かるべし」 が絵入り新聞小説で
    ある事を力説し、これをまともに論ずるのは誤りであると、大森
    義太郎氏の不親切なる批評に答えている。しかし誰も、恐らく
    大森氏自身も、広津氏が自分の才能を棚に上げてものを言って
    いるとも思わぬだろうし、「風雨強かるべし」 が絵入り新聞小説
    の通俗性に、反抗出来る限り反抗したという作者の功績並びに
    努力に敵意を表するのである。僕の言いたいのはそこにあるの
    ではない。では何故批評家が敬意の出し惜しみをせざるを得な
    いかというところなのだ。少々言葉が意地悪くなる傾向があるが、
    僕らのほしいものは作品だ、作品だけだ。楽屋話しはほしくない
    のだ。何故かというと僕らが月々読まされる作品で作者の楽屋
    話しを伴わないようなさっぱりした作品が幾つある。敢えて作者
    に聞くまでもない、作品そのものが既に楽屋話しに化しているで
    はないか。

     作家の努めるところは文学の社会化ではない。社会性を明瞭な
    文学的 リアリティ に改変する事だ、社会事情が文学作品に反映
    しているという事実性と社会事情を作品に表現するという実践性
    とが、今日くらい奇怪な混乱状態にある時はない。しかし両方の
    概念を混同してものを考えてはいけないのだ。僕はそんなに頭が
    悪いはずはないのだが、と弁解しても駄目である。力及ばず止む
    なく社会化した文学作品を制作しているうちに、自分は結構社会
    性を文学化しているという錯覚に落入るものだ。誰がこの錯覚に
    悩まぬと言い得よう。人間の精神はそう強いものではない。

     「風雨強かるべし」 から知識階級困惑の問題を抽き出すのは
    やさしい。この作品に新聞小説の問題を見つけるのと同じくらい
    やさしい。難しいのはこの小説に感動する事だけである。つまり
    この小説が僕らに強いるものだけがやさしいのである。(略)

 以上の引用文を読んでいた時に私は身につまされる感を覚えました──私が仕事をしている (コンピュータ 領域の) モデル 論についても、そのまま適中する意見であると思いました。これらの引用文を元資料にして私の Twitter で幾つかをつぶやく事ができるでしょうね。最近の 「反文芸的断章」 の記述の中に 「反 コンピュータ 的断章」 で綴ったほうがいい意見が少なからず混入しているので、今回は、これ以上に私の仕事に言及する事を控えます (笑)。

 文学作品が文学的 reality を喪ってしまったという小林秀雄氏の意見を、前回の 「反文芸的断章」 で註釈しました。そして、その現象は、「社会」 のしくみ (「関係」) の中で個人が テクノクラート 的性質をもとめられているようになった事に起因するのではないか [ ひとつの個性が全人的に仕事 (一つの閉じた体系的な仕事) を実現するのが難しい時代になったのではないか ] という意見を私は以前に述べました。そういう環境の中で作家たる事は難しい。小説に限って言えば、「社会から借りたものを社会に返す」 (スタンダール) 性質であれば、作品とは仮象ではなくて一つの 「関係」 すなわち事態から作品への変成作用そのものであって、その変成作用が作家の生活理論・制作理論 (すなわち、個性) なので──小林秀雄氏の言を借りれば、「社会性を明瞭な文学的 リアリティ に改変する事」 なので──、作家の使命は 「文学の社会化」 を果たす事ではないはずです。もし、「文学の社会化」 という事がもとめられているのなら──そういう要請は無意味 [ 文学を破壊する行為 ] だと私は思っていますが──、批評家がそれを担えばいい。勿論、そういう批評家を私は三文文士だと見做 (みな) しますが。個人の作品鑑賞という行為に対する批評家の僭越だと私は見做します。文学作品の中から思想しか読みとらない様な批評など文芸批評に値しないでしょう。そして、作品の出来ぐあいを言い訳するような作家も作家じゃない。

 
 (2012年 5月16日)


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