小林秀雄氏は、「文芸時評について」 の中で以下の文を綴っています。
例えば、一と頃文学の方法について様々な議論があったが、
いつしか立消えとなったのは、この議論に解決があったがため
ではない。議論が複雑になって来るとともに、文芸時評という
ものを中心として書く事を強いられている批評家たちが、複雑化
した議論をこなす場所を見出し難くなったからだ。現在明快な
文芸批評方法を持っていると自負する批評家も少なくないだろう。
だがそれを君らはどこで証明するか。どんな理論的方法論にせよ、
方法論自体は人を納得させるものではない。昔から納得させた
批評家はいないのだ。どうしても実験を要する。その実験の場所
をどこに見つけるか。月々の作品にか、月々の文壇的問題にか。
僕はこれ以上言う必要を認めない。
以上はほんの一例に過ぎぬ。作家が作品発明の形式に、ジャア
ナリズムから様々な制限を加えられている事はしばしば作家に
よって嘆かれている。だがこの点で批評家はまだ比較にならぬ
みじめな状態にある。文芸時評というものがなかったら今日の
批評家は食うに困るのだ。しかもこの発表形式は批評家がその
野心を実現するのに最も不便な形式なのだ。この点で批評家等
は何らかの動きを示すべきであるし、編輯者もこの動きに敏感
である事を僕は切望する。
上に引用した文は、「文芸時評について」 の最後に綴られている文です。この文を読んで、私は、同じ様な事態が モデル を論じている コンピュータ の領域でも観られる事をまざまざと感じました。ちなみに、この文は、1935年頃に綴られた文です── 77年前に綴られた文である事を鑑みて、その後の文学の辿った道を眺めてみれば、小林秀雄氏の先見的な嘆き (憤怒?) もわかるでしょう。しかし、文学では、一人の天才が出れば事は変わる。尤も、天才が出る (天才を生む) ような土壌ではなくなった事を小林秀雄氏は嘆いているのですが。
「方法論」 というものは [ あるいは、一般化して 「理論」 と云ってもいいでのですが ]、とても厄介な性質を持っているようです──入門者が落ちやすい陥穽です。自分がこれから登ろうとする険しい連峰を前にして、なんとかして、上手に登る手立てはないかと考える事は正しいし、そういう連峰をかつて登った人たちの登山術を手本にする事や彼等が歩いた道すじを事前に調べる事は決して悪い事じゃない。しかし、実際に登山してみなければ、登山の辛さや、その辛さを相殺して余りある爽快さ (達成感) を実感できないでしょう。こんな事は我々が普段の生活の中でわかりきった事です。しかし、「方法論」 を学び始めると、うっかりすれば、様々な事象に対応できるような、まるで 「本質」──私は、このことばの意味を疑っていますが──を掴んだような錯覚に陥って、それさえ学べば様々な事象に対応できるかの様に思い込んで、「方法論」 に夢中になってしまう──初学者の陥りやすい罠です。小林秀雄氏の言うように、「だがそれを君らはどこで証明するか。どんな理論的方法論にせよ、方法論自体は人を納得させるものではない」、「どうしても実験を要する。その実験の場所をどこに見つけるか」。「方法論」 とは、そういう性質です。「方法論」 は、仕事のための ツール の一つにすぎない──それ以上でも、それ以下でもない。
それぞれの立派な 「方法論」 は、必ず、前提 (公理)・目的 (目的関数)・制約 (制約関数) を持っています。それらを実際の事態に適用して、それらを改良していかなければならない。それが 「実験」 という事でしょう。前提 (公理) は仮説にすぎない。私は モデル TM を 「論理」 の ルール に遵 (したが) って作りました。モデル TM を立派な技術であるという自惚れを私は更々持っていないのですが、TM は──その前身たるT字形 ER法もふくめれば──18年に及んで実地に使って来て、少なくとも エンジニア の良心に則って改良を少しずつ施して来ました。そういう仕事の中で、私は、時々、TM を 「呪い」 の様に感じた事もあった──こんなに苦しめられるなら、こんなものを作らなければ良かった、と。しかし、私の生活の中から TM を外してしまうと、私は単なる変人 (変な オジサン) にすぎないでしょうね (笑)。才が乏しいくせに モデル 制作に手を出したので苦労したのかもしれないのですが、数多くの 「実験」 を体験して来た私の眼から観れば、「方法論」 に夢中になっている若い人たちが あたら才を浪費している態は不健康 (病的?) に思われます。仕事を始める前に、論を学ぶのは正しい。しかし、実務家 (practitioner) であるならば、先人の論を学んだら、実地の使用の中で工夫して下さい。それしか、論 (仮説) を実証・改良するやりかたはない。
[ 補遺 ]
「反例からみた数学」 (岡部恒治・白井古希男・一松 信・和田秀男、遊星社) の 「あとがき」 で次の文が綴られています。長い引用 (抜萃ですが長い引用) になりますが、モデル を作るときに、「前提 (あるいは、条件)」 が如何に作用しているかを適確に述べてあるので読んでみて下さい。
数学を勉強していると、必ずいろいろな定理や命題に出会う。
そのとき、定理についている条件とか仮定がなにを意味して
いるのか、定理を一読しただけではよくわからないことがある。
そこで証明を読むと、どこにその条件が使われているかが
わかり、一応定理もわかたような気になる。ところが、振り
返ってみると、「一体なにを証明したのか」 と疑問に感ずる
ことがときにはあるであろう。そのようなとき、落ち着いて
考え、いろいろ自分で試してみたりすると、いろいろと奇妙な
ことに出くわす。そこで、このような ヘン なことを除外する
ために、あれこれと条件を入れたのだ、と納得する。──ここ
に出てきた奇妙なもの──これこそが 「反例」 であり、この
ようなことを実際に考えられるかどうかが、結局は数学を理解
する (行なう) ことにつながるのではないだろうか。
モデル の規則を作る時には、「反例」 を徹底的に推測します。そして、モデル を現実的事態に適用して 「反例」 が存するかどうかを常に験証します。そして、「反例」 が存するならば、それが 「変則な」 事態であって モデル の規則を変更するに及ばない事態なのか、それとも その事態の発生頻度や他の事態への影響ぐあいなどを鑑みれば モデル の前提を改良しなければならないのかを、モデル の規則を作る エンジニア なら必ず配慮しているはずです。そういう配慮 (前提、目的関数および制約関数) のない論など私は信用する気にはなれない──私に限らず、「論理」 を学んだ人なら きっとそう思うでしょう。
(2012年 6月 1日)