小林秀雄氏は、「私小説論」 の中で以下の文を綴っています。
私は、かつて例もなかったし、将来真似手もるまいと
思われることを企図するのである。一人の人間を、全く
本然の真理において、人々に示したい。その人間とは、
私である。ただ私だけだ。私は自分の心を感じ、人々を
知って来た。私の人となりは私の会った人々の誰とも
似ていない、いや世のあらゆる人々と異なっていると
敢えて信じようと思う。偉くないとしても、少なくも違って
いる。自然の手で私が叩き込まれてた型を、自然は
毀 (こわ) す方が善かった悪かったか、それは私の
本を読んでから判定すべき事だ。(中略) 数限りない
人々の群れを私の周囲に集めてくれ給え、人々が私の
告白をきき、私の下劣さに悲鳴をあげ、私のみじめさに
赤面せん事を。彼らが各自、同じ誠意をもって、貴方
(自然) の帝座の下に、その心をむき出しにして欲しい。
もし勇気があるなら、たった一人でも、貴方に言う人が
あって欲しいものだ、私はあの男よりはましだった、と。
これは、人も知る通り、ルッソオ の 「レ・コンフェッシオン」
の書き出しである。これらの言葉の仰々しさはしばらく問うまい。
また、彼がこの前代未聞の仕事で、果たして自分の姿を正確
に語り得たか、語り得なかったか、それも大して問題ではない。
彼が晩年に至って、「孤独な散歩者の夢想」 のなかで、かつて
自然の帝座に供えた自分をどのような場所まで追い詰めたか
を僕らはよく知っている。僕がここで言いたいのは、この ルッソ
オの気違いじみた言葉にこそ、近代小説において、はじめて私
小説なるものの生まれた所以のものがあるという事であって、
第一流の私小説 「ウェルテル」 も 「オオベルマン」 も 「アド
ルフ」 も 「懺悔録」 冒頭の叫喚なくしては生まれなかったの
である。
上に引用した文は、「私小説論」 の書き出しの文です。仰 (のっけ) から難しい概念が幾つも──本文への伏線として──出ています。即ち、「私 (あるいは、自分)」 や 「告白」 や 「自然」。そして、「私」 (および 「自然」) に対して 「社会」 という対比概念を想起するでしょう。「私小説論」 は、やや長めの評論で、読み下すのが難しい。というのは、日本の小説に対する批評のみならず、西洋の小説に対する批評も綴られていて──たとえば、ジード、ゾラ、モーパッサン、ドストエフスキーなど──、広範に (しかも、詳細に) 文学を読んできた人でなければ、小林秀雄氏の論を把握できないでしょうね。
私は 「私小説論」 を読み通すことはできましたが、彼の論を納得できるかどうかを判断するには、私が読んだ西洋文学の作品は少なすぎる──たとえば、私は ゾラ の作品を一冊も読んでいないし、ジード も モーパッサン も ドストエフスキー も、それぞれ、数冊ずつしか読んでいない。ゆえに、私は、「私小説論」 を読んで、いわば消化不良の状態に陥っている事を表明して置きます。そのために、本 エッセー では──そして、「私小説論」 を題材とするにあたって次回以降も──、小林秀雄氏が西洋文学について論じている事を是認して、それと対比して日本文学 (の私小説) を論じている彼の意見に限って私の感想を述べる事にします。本 エッセー の書き出しが ずいぶんと歯切れの悪い、言い訳がましい文になりましたが──そうであれば、小林秀雄氏が言及している西洋の作家たちを読んだ後で 「私小説論」 を題材にすればいいのですが [ 文芸批評を職としている批評家ならそうするでしょうが ]、それらの作家たちの作品を丁寧に読むための時間を (文学以外の事を仕事にしている) 私は割り振る事ができないので──、それでも、「私小説論」 の中で論じられている 「私」 という概念が私を惹きつけるので敢えて本 エッセー で題材にした次第です。
ルッソオ が述べている 「私」 を表白する事は──言い替えれば、「全人的な個性を表す」 事は──、現代社会では とても難しい行為となったのではないかしら。「この人を観よ」 というふうな、思想 (人生・社会に対する統一的な判断体系) を社会に伝播する程の強い個性は、現代社会では、産まれるのが難しい社会の仕組みになったのかもしれない──哲学・文学は落魄の身なのかもしれない。人間 (の生態) も自然現象の中の一つであると考えれば、哲学・文学が科学に座を奪われつつあるのかもしれない。ベルクソン 氏の 「生の哲学」 が 「精神物理学」 を批判して、その後に実存哲学が現れたけれど、社会の風潮は科学を いよいよ重視して、その風潮の中で疑似科学まで のさばる様な状態になってきたのではないかしら。そういう社会構造の変化の中で、当然ながら、「私」 という概念も変質を免れないでしょう。
かつて自分自身の生活の中で独我的に自信を持って実感されていた 「私」 は、社会の中で、いかなる ポジション (座標) を占めているかというふうな 「相対的な 『私』」 に変質せざるを得なくなったのではないかしら。そういう社会的構造 (関係) の中では、個性 (あるいは、思想) などは無用の長物であって、一つの ファンクション (役割) として計測される。しかし、個体には必ず個性が存する。ゆえに、「社会と個人」 という悩ましい課題が生ずる。
そういう世態の現代社会では、私小説の文学性が弱体化したのでしょうね。社会の中で抑圧された個性の歪な生態というような 「定番の」 心理小説 [ 私小説 ] なら私でも──私に限らずほとんどの人たちが──(表現の上手下手はあるとしても、) 書き下す事ができるでしょう。というのは、自分の置かれている状態を報告すればいいのだから。しかし、ほとんどの人たちの人並みな生態を描写しても (あるいは、その生態の裡に存する異常心理を描写しても) 小説になるはずもない。もし、それを小説という文学にするのであれば、月並みな題材に対して表現技術上の工夫を凝らす道しかないでしょう。そうなれば、技巧の工夫ばかりが先走る危うさがある。「日常に潜む異常性を鋭い視点で描く」 などという様な ちまちました小説──物語という性質ではなくて、批評文的随筆とでも称したほうがいい作品──を読んでも私は一向に感じ入る事がない。「個性」 が 「思想」 や 「精神」 というものと等値である事が難しい時代になったのでしょうね。文才の乏しい私には巧く謂えないのですが、敢えて言ってみれば、人間の生態の総合的な再現を作家の仮構 (構成力) の中で実験する小説という文学形態において、「私」 という経験的個性よりも 「私の見かた」 という分析的視点を前面に押し出さなければならない時代になったのではないかしら [ 絵画にも同じ様な現象が起こっている事を私は感じています ]。現代の文学作品を読んでみて、作品を制作した視点がはっきりとわかるけれど──そして、作品のうえに現れている技術がはっきりとわかるけれど──惹かれない [ 「理屈ぬきの魅力」 を生じない ] という奇妙な体験をして以来、私は現代物を読まなくなって、古典を読んで私の飢えを満たすしかない。
SNS という テクノロジー が普及して自らの経験を思いのままに発信できる (そして、複数・多数の人たちが community を作って交流できる) 現代社会の中で、小説家という職業的専門家は、いかなる (文学の) 理念を持ち得るのか──小説家の意見を伺ってみたい。
(2012年 6月 8日)