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their conscience is weak, and they feel they are defiled by the food. (1 Corinthians 8-7)

 



 小林秀雄氏は、「私小説論」 の中で以下の文を綴っています。

     マルクシズム 文学が輸入されるに至って、作家等の日常
    生活に対する反抗ははじめて決定的なものとなった。輸入
    されたものは文学的技法ではなく、社会的思想であったと
    いう事は、言って見れば当り前の事のようだが、作家の個人
    的技法のうちに解消し難い絶対的な普遍的な姿で、思想と
    いうものが文壇に輸入されたという事は、わが国近代小説
    が遭遇した新事件だったのであって、この事件の新しさと
    ことを置いて、つづいて起こった文学界の混乱を説明し難い
    のである。

     思想が各作家の独特な解釈を許さぬ絶対的な相を帯びて
    いた時、そして実はこれこそ社会化した思想の本来の姿
    なのだが、新興文学者等はその斬新な姿に酔わざるを得な
    かった。当然批評の活動は作品を凌 (しの) いで、創作
    指導の座に坐った。この時ほど作家たちが思想に頼り、
    理論を信じて制作しようと努めた事は無かったが、またこの
    時ほど作家たちが己れの肉体を無視した事もなかった。
    彼らは、思想の内面化や肉体化を忘れたのではない。内面
    化したり肉体化したりするのにはあんまり非情に過ぎる
    思想の姿に酔ったのであって、この陶酔のなかったところ
    にこの文学運動の意義があったはずはない。

     彼らは単に既成作家等や既成文壇を無視したばかりでは
    ない、自分らのなかにあらゆる既成的要素を無視した。これ
    は結局、同じ行為であるが、こういう行為に際して、人は
    自分の表情を読み取り難い。しかし彼らは読み取り難いの
    を気に掛けなかった、掛けたら彼らに行為は不可能であった。
    彼らは誤っていたか、いなかったか。彼らは為 (な) さざる
    を得なかった事を為 (な) したまでだ。

 マルクシズム 文学を、このささやかな エッセー の中で総括しようという様な軽率さを私は持ってはいないので、この エッセー では、私の体験を振り返ってみようと思います。

 私は マルクシズム 文学を読んだ事は一度もない。私が大学生の頃、いわゆる 「学生運動」 は末期の頃であって――いわゆる 「内 ゲバ」 状態になっていた頃であって――、一般学生は 「学生運動」 から疾 (とう) に距離を置いていた状態でした。「学生運動」 と マルクシズム との関係をここで述べようとも思わないけれど、私は、当時、いわゆる 「マル 経」 (マルクス 経済学) を履修していました。履修したと云っても学部の授業ですから、せいぜい、「経済学批判」 (マルクス、岩波文庫) を読んで、マルクス 経済学者の書物を数冊読んだくらいです (私の記憶が朧になってしまっているのですが、向坂逸郎氏の著作だったと記憶しています)。同級生たちが 「近代経済学」 を履修していて、サミュエルソン 氏の 「経済学 (上・下)」 (都留重人氏訳) という分厚い書物を持っていたのを――その書物には数式が多く記述されていて――そっちのほうが学問の雰囲気がするなあと少々妬みの念を抱いて観ていましたw。ロシア 文学を多く読んでいましたが、マルクシズム とは全然関係がない書物でした (ドストエフスキー、トルストイ、ツルゲーネフ、ゴーリキー、チェーホフ、ショーロホフ など)、ソルジェニツィン を読んでいない。

 大学は、「学生運動」 の最中、いわゆる ロックアウト される事が多くて、授業は殆ど開かれない状態で、学期試験も レポート が多かった。授業がない日々が続いて、田舎から東京に出て来た私は、貧乏だったので近隣の町 [ たとえば、新宿 ] に移動する交通費の金銭的余裕もなかったので、三畳一間の下宿で読書するしかなかった――当時は、今ほどに アルバイト 職が豊富ではなかった。フォークソング 「神田川」 で歌われている風情そのままの生活でした。血気に逸る青年が為 (す) る事もない状態に置かれれば、精神は鬱積するに決まっている、私は鬱積した精神を晴らすために一向 (ひたすら) 書物を読みました。そういう状態に置かれた青年が読む書物は、自らの精神を如何に調 (ととの) えるべきかという人生論に向かうのは自然でしょう――私は、当時、亀井勝一郎氏の著作を多量に読みました。そして、恋愛――ただし、この事を公にするつもりはないです (他人の恋愛話を聞かされるほど退屈な事はないし、そういう話を公にするほど私は羞恥を失っていない)。自我が強烈に芽生えているにもかかわらず自分を実証する仕事を持っていない青年が (他人の [ 手本としたい先人たちの ]) 「思想」 を まさぐるのは寧ろ自然ではないかしら。

 日常生活に反抗を覚える青年が、自分を実証する仕事を持たぬままに社会思想を学べばどうなるかは想像に難くない。「思想」 に酔う。「思想」 は、観念的な普遍的な姿のまま (消化過程を省いて) 青年の指導的役割を担う様になる。過去を持たぬ 「思想」 が接ぎ木された状態で生 (は) えている。周りの人たちから観れば、滑稽な態にしか写らないが、本人にしてみれば、苦悶の中で取得した自我の一部だと思い込んでいる。もし、そういう青年が観念的に陥っている疚 (やま) しさを幾許 (いくばく) かでも感じていれば、「生活哲学」 に憧れる事になるのだろうけれど、青年においては それも観念の域を出ない。念のために断って置きますが、私は、そういう青年を非難しているのではないのです。もし、そういう青年が、仕事にいずれ就いて、かつて学んだ 「思想」 を校正する (時には、撤回する) 意志 [ 意識 ] を持っていれば、「思想」 は無用ではなかった。その事は、本人の 「表情」 (顔、目、文体) に必ず現れるでしょう。「思想」 は、精神の盲腸としてぶら下がっているものじゃないし、たびたび着替えられる衣裳でもない。「自分」 という 「観念」 上の一つの表現が 「思想」 ではないかしら。

 
 (2012年 8月 8日)


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