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to your knowledge add self-control; to your self-control add endurance; (2 Peter 1-6)

 



 小林秀雄氏は、「私小説論」 の中で以下の文を綴っています。

     しかしここにどうしても忘れてはならない事がある。
    逆説的に聞えようと、これは本当の事だと僕は思って
    いるが、それは彼らは自ら非難するに至った、その公式
    主義によってこそ生きたのだという事だ。理論は本来
    公式的なものである。思想は普遍的な性格を持っていな
    い時、社会に勢力をかち得る事は出来ないのである。
    この性格を信じたからこそ彼らは生きたのだ。この本来
    の性格を持った思想というわが文壇空前の輸入品を一手
    に引受けて、彼らの得たところはまことに貴重であって、
    これも公式主義がどうのこうのというような詰まらぬ問題
    ではないのである。

     なるほど彼らの作品には、後世に残るような傑作は
    一つもなかったかも知れない、また彼らの小説に多く
    登場したものは架空的人間の群れだったかも知れない。
    しかしこれは思想によって歪曲され、理論によって誇張
    された結果であって、決して個人的趣味による失敗乃至
    は成功の結果ではないのであった。

     わが国の自然主義小説は ブルジョア 文学というより
    封建主義的文学であり、西洋の自然主義文学の一流品が、
    その限界に時代性を持っていたに反して、わが国の私小説
    の傑作は個人の明瞭な顔立ちを示している。彼らが抹殺
    したものはこの顔立ちであった。思想の力による純化が
    マルクシズム 文学全般の仕事の上に現れている事を誰が
    否定し得ようか。彼らが思想の力によって文士気質なる
    ものを征服した事に比べれば、作中人物の趣味や癖が生き
    生きと描けなかった無力なぞは大した事ではないのである。

 私は システム・エンジニア を職業としています。そして、その職業の中で、特に モデル 論を専門として来ました。上に引用した文は、モデル 作りにも そのまま流用できる意味合いを持っていると思います──誰でも、どうにもならない外界よりも思い通りに扱う事のできる観念を信ずるほうが気持ちいいでしょう。しかも、それが、自分の生活に根ざした独我的観念の告白であれば猶さらでしょう──気持ちがいいという言いかたが語弊を生む恐れがあるのであれば [ 作家は苦しんで 「表現」 を探っているので ]、日本では、社会生活から乖離していない私生活を (そして、自意識を) 信じていれば文学を作る事ができたと言い替えてもいいでしょうね。だから、文士気質が生まれた。現実的事態には偽物などないけれど、凡ての モデル は でっち上げ物なのです。その状態を文学的に言えば、私小説には文士気質が生まれやすいという事でしょう。そういう文士気質を叩き壊して現実的事態を彫塑するための 「思想」 を マルクシズム 文学は齎 (もたら) した。ただ、「思想は普遍的な性格を持っていない時、社会に勢力をかち得る事は出来ないので」、良い意味でも悪い意味でも、公式的な性質を持っている。それがゆえに論点となるのが 「思想」 の画一化でしょうね。小林秀雄氏は、他の エッセー の中で次の文を綴っています (「レオ・シェストフ の 『悲劇の哲学』」)。

     文学作品が哲学的理念を担い、哲学大系が文学的 リアリティ
    を帯びるのをしばしば私たちは見た。しかしこういう光景が深い
    意味を生じたのは、実例に依れば一流文学者、一流哲学者の
    場合に限ったのであった。文学みたいような哲学あるいは哲学
    みたいような文学を既にあり余るほど私たちが持っている時、
    何故哲学と文学との握手を敢えて説かなければならないのか。

     レトリック を離れて哲学はない、言葉を離れて理論はない
    からだ。整然たる秩序のなかに、どんなに厳正に表現された
    哲学大系も表現者の人間臭を離れられぬ。歴史の傀儡 (かい
    らい)、社会の産物たる個人の影をひきずるものだ。哲学が
    文学に通ずるのは、この影においてのみである。論理的言語
    が、精妙であればあるほど、この影は精妙であるはずだ。
    尋常な理論は何語にも翻訳出来るが、たとえば ヘエゲル の
    理論は恐らく ゲエテ の詩のように翻訳に適せぬはずであろう。

 私は、前回の 「反文芸的断章」 の中でも綴りましたが、プロレタリア 文学 (あるいは、マルクシズム 文学) を読んでいないので、そういう文学が、いったい文学として成功したのかどうか、を判断できないのですが──小林秀雄氏は日本では成功しなかったという意見を述べていますが──、文学が 「思想」 を意識する初めての契機を齎した功績は認めていいが、作家の 「顔立ち」 を削ぎ落としてしまった、と。職業的作家に限らず、なんらかの個性的説を公にしようとする人は、「普及 (公式化)」と「個性」とのあいだで苦しむ筈です──私くらいの程度の凡人でも、書物を出版する時に、この パラドックス に悩む。「多くの人たちにわかってもらいたい」 と願う反面で 「きっとわかってはもらえない (もし、わかってもらえたとしても、多くの ニュアンス を抹消された骨組みのみを ラベル 化されて普及したにすぎない)」 と嘆くでしょう、きっと。小林秀雄氏風に言えば、「遂に、どんな個人でも、この世にその足跡を残そうと思えば、何らかの意味で自分の生きている社会の協賛を経なければならない。言い代えれば社会に負けなければならぬ。社会は常に個人に勝つ」。或る哲学者は、自らの説を公にした時に 「たった一人の心の中にでも深く入れば幸せだ」 と謂ったそうですが酔狂の言じゃない、切なる思いの言であることを私は実感できる。自分の説が ラベル 化されて普及されるよりも [ 熱狂的な歓迎の後に直ぐに忘却されるよりも ]、読者が ページ を長いあいだ開いたまま考えてくれる事を願わない作家・思想家はいないでしょう──もし、彼らが誠実な作家・思想家であれば。無論、「誠実な」 という意味は、「思想」 と真摯に [ ラベル を読んで中身を識ったつもりにならずに ] 向きあったという意味です。

 
 (2012年 9月 1日)


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