小林秀雄氏は、「私小説論」 の中で以下の文を綴っています。
(略) 自分の生活と社会生活との矛盾を感ぜず、感受
性と表現との間に本質的な軋轢 (あつれき) を感じて
いない以上、取り扱う題材そのものに関しては疑念の
起りようがない。舞台は確定している。楽屋話は要する
に楽屋話だ。そして楽屋話は作家の腕力のなかに肉体
のなかに溶け込む。一体こういう事情が健康な作品を
生む地盤なのだが、この幸福は長つづきしなかった。
作家の秘密のあり場所が変って来たのである。
作家の秘密というものを、作家は語るべきか、語るべき
ではないかは、それが作家の表現の正当な対象となる
かならないかにかかっている。作家たちは、何を描こうと
選り好みはしなかったにせよ、描き方というものを表現
対象とする事は想像してもみなかったのだが、そういう
想像してもみなかった事が実際に起って来た。描き方と
いうものを材料として、作品を創らねばならないような
妙な作業を作家たちは事実強いられるようになったので
ある。現実よりも現実の見方、考え方のほうが大切な題
材を供給する。(略)
私 (佐藤正美) は、以上の引用文を読んだ時に、三島由紀夫氏の作品を思い浮かべました。「描き方というものを材料として、作品を創らねばならないような」 「現実よりも現実の見方、考え方のほうが大切な題材」 となった彼の作品の代表は 「仮面の告白」 (昭和 24年) でしょう。その作品では、「自分の生活と社会生活との矛盾」 を感じて、「感受性と表現との間に本質的な軋轢」 を感じていたのではないかしら。そして、それが最高度に結晶したのが 「金閣寺」 (昭和 31年) ではないかしら。「金閣寺」 は、モデル 小説ですが、明らかに、現実社会から隔絶された青年僧の 「美意識」 と孤独感を描いています。
しかし、三島由紀夫氏は、それらの作品を創った後で、一転して、「自分の生活と社会生活との矛盾を感ぜず、感受性と表現との間に本質的な軋轢 (あつれき) を感じていない以上、取り扱う題材そのものに関しては疑念の起りようがない。舞台は確定している。楽屋話は要するに楽屋話だ。そして楽屋話は作家の腕力のなかに肉体のなかに溶け込む」 様な作品を書きはじめた──「憂国」 (昭和 36年) はその代表作でしょう。時代が政治的・経済的に騒然としていた時、その時代の風景と逆行する様に彼は行動しはじめた。彼の作品を私小説というかどうかは (文学の シロート たる) 私にはわからないけれど、三島由紀夫氏が作品と一致する生活様式に遵った事は疑いない。昭和 45年11月25日、三島由紀夫氏は、自衛隊の革命決起を促して割腹自殺しました──革命決起が実現できない事を彼はわかっていた筈です。明らかに 「殉死」 だったと考えていいでしょう。誰 (何) に対する殉死かは、申しあげるまでもあるまい。
[ 補遺 ]
三島由紀夫氏の割腹自殺の一報を聞いた時、(薄暗い) 和室の中で白装束で古式に則って切腹したものと私は直ぐに想像しました。しかし、そうであれば、「金閣寺」 の延長的行為でしょう。金閣寺に替わって彼が見据えたものは、「日本人の精神」 ではないかしら──三島由紀夫氏は、当時すでに極東の無機質な経済大国の出現を推測していました。
(2012年10月 8日)