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you will not be able to finish the tower after laying the foundation; (Luke 14-29) |
(略) 作家たちはいよいよ題材そのもののもつ魅力に
描写文学も告白文学も信じられない、ただ自意識という
周知のごとく、マルクス 主義文学が渡来したのは、二十
私小説は亡びたが、人々は 「私」 を征服したろうか。私小説
以上の引用文は、「私小説論」 の終わりのほうで綴られている文です。「私小説論」 で小林秀雄氏が批評した論点をまとめた文なので、「私小説論」 の本文を読んでいれば、さほど難しい論ではないでしょう。「私小説論」 が公表された年代は 1935年なので、それから約 80年の時が流れて、その 80年のあいだには、多くの作家たちが作品を制作して来ました。小説が 「人間生活の総合的な再現」 であるならば、もし人生を真摯に考えているのであれば、人生経験をもつ人は誰でも小説 (の題材 [ 主題 ]) を持っているはずでしょうね。ただ、その主題を作品として構成する ちから の良否が問われる。そして、二番煎じ では作品にならないでしょう──誰もが知っていながら誰もが観なかった [ 見過ごした ] 実相を主題にしていなければならない。
「『私』 を確実な視点と信じて」 自分の生活の中の断片を描くのであれば、小さな世界 [ 構成 ] しか描けない──そして、主題がこぢんまりしていて文量の多い作品を長編とは云わないでしょう。私の単なる直感にすぎないのですが、日本人は随筆 (および、短歌・俳句) を好んでいるのではないかしら。随筆を好む人たちが 「私」 (の見かたさえ)を疑って事態 [ 実相 ] を凝視して物語性を構成する事に慣れているとは思えないのだが、、、。私は文学研究家ではないので、過去 80年のあいだに公表された作品群を実証的に調べる事はできない。故に、あくまでも私の単なる直感を述べるにすぎないのですが、随筆・短歌・俳句を好む日本人の伝統は変わっていないのではないかしら。エッセー (随想) と云っても、パスカル や モンテーニュ や ルソー や アウグスチヌス に匹敵する日本人作家は存するかしら。ちなみに、パスカル、モンテーニュ、ルソー、アウグスチヌス の 「随想」 「告白」 は私の大好きな作品 (?) です──彼等の作品は、「文学以前の」 「『私』 の土俵」 を見つめた作品です。論証好きな システム・エンジニア が文学を直感的に語る事の蒙昧を もうこれくらいで止めたほうがいいでしょう──私は、所詮、小林秀雄氏の論に託 (かこつ) けて、私の随想を述べてきただけです。それでも、私は、論説を感性と切り離して語る事などできないと信じています。
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