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May his house become empty; may no one live in it. (Acts 1-20) |
(略) 君は私小説に興味を失ったのではない、書こうにも
ここに僕は新人が文壇に出るとともに感染する一種の
見事な分析力ですね、こういう視点の取りかたが小林秀雄氏の逞しさとなっている様に私には思われます。この文は 1935年に綴られたのですが、小林秀雄氏が指摘した病源菌は、その後 約80年のあいだに、いよいよ繁殖したように私には思われます。私は システム・エンジニア を職にしているのですが、具体的な テクノロジー を扱う領域でも、こういう傾向が顕然と現れています──「僕らには新しい解釈がある、と、いかにも新しい解釈だらけなんだ。新しい生活はありゃしない、新しい解釈で反逆しているような気がしているだけだ」。たとえば、クラウド 概念は、サーバ と ネットワーク との関係 R (x1,・・・, xn) について、変数としての サーバ を主体に考えていた状態を ネットワーク R のほうに視点を移すという パラダイム・シフト の buzzword なのですが、その実態は レンタル・サーバ の 「新しい解釈」 にしか私には見えない。そして、The Internet は、18世紀半ばに起こった産業革命を上回る革命だったという世評ですが、生活に便益を齎す技術は進歩したけれど、我々の生活は果たして 「新しい」 生活になったか、──「時と所」 を超えて色々な事を見せてくれる技術が豊富になっても、それらの 「情報」 の収束を計るのは竟 (つい) には一人独りの個人であって、我々は個人の生活上、ほんとうに新しい技術を使って 「新しい生活」 を実現したのか。私が論点にしている 「新しい生活」 というのは、総体としての 「人間力」 (身体と精神、小林秀雄氏のことばを借用すれば 「私生活の健康な肉感性」) が充実したのかという事です。子どもじみた大人と大人振った子どもが蔓延した様に思うのは私の偏見かしら、、、。
小林秀雄氏は第二段落目の中で 「身の上話が不可能なほど、実生活が混乱した時」 というふうに綴っていますが、SNS が普及した現代では、寧ろ 「身の上話が膨大な量で アップロード されて、貧相な実生活が展覧に供されている」 状態に陥っているのではないか。勿論、私は The Internet の便益を享受しています──私は The Internet を活用して [ addict と云ってもいいような状態かもしれないのですが ] 色々な情報を入手していますし、それらの情報はとても役立っています。しかし、私は、果たして、The Internet を知らない時代に生きた人たちの生活に比して 「新しい生活」 を建設し得たのか、、、小林秀雄氏の人生に較べて私の生活はいかに矮小か、、、小林秀雄氏は天才だから私が敵 (かな) わぬのは当然だって? 彼は この文を 33歳の時に綴っているのです、私は今年 60歳になる──ツール の進歩が人間力の修養と無関係である事を画然と思い知らされる。
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