anti-daily-life-20130123
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...they began to pick heads of wheat and eat the grain. (Matthew 12-1)

 



 小林秀雄氏は、「新人 X へ」 の中で以下の文を綴っています。

    (略) 先ず独断的な自分の直観力を設定して、これ
    だけを信用する。作品にどんな企画がかくれていよう
    が、どんな思想が盛られていようが、それは作者が
    ただそんな気になっているものとして、一切信用しない
    事にする。(ああ何んとすがすがしい事だ。) ただ
    出来映えだけを嗅ぎ分ける。物質の感覚が、或いは
    人と人とが実際に交渉する時の感動が、どの程度に
    文章になっているか、そういうところだけを嗅ぎ分け
    る。するとそこに、消極的なものだが、文学に対する
    社会の洒落気のない制約性が得られる。言わば今日
    の作家たちは、扱う材料の混乱自体によって、どう
    いう具合に自ら知らず識らず傷ついているかという
    グラフ が得られる。得られるという事は空想だが、
    一般の人々がこの グラフ を踏み越えて、文学を鑑賞
    しようとする事は先ずないということは事実だ。彼らは
    今日の純文学を面白くないと一と口に片附ける。その
    理由を説明せず、相手の弁解も聞きたがらないところ
    に、彼らの言葉の強さと正しさとがある。彼らに純文学
    と通俗文学との区別などありはしない。一切の文学は
    面白いだけが能なのだ。(彼らがどれほど文学の面白さ
    に対して、人生の面白さに対して敏感なように敏感で
    あるかは君は観察によって知るべきである。) そして、
    君は今、文学は面白いだけが能ではない、と自ら繰返し、
    周りに繰返させながら仕事をしなければ作家たる身が
    持てないような場所に追いつめられている。君が民衆を
    口にしながら民衆に面白くない作品を強いているのは、
    民衆への侮蔑だなどというような事を言うのではない。
    面白くするにはどういう技巧を凝らすべきかより、面白さ
    とは何かという事を反省してもらいたいのだ。

 見事な分析ですね、しかし小林秀雄氏は極々当たり前の事しか言っていないのですが、この当たり前の事が所謂 「専門家の目」 には当たり前の事として見えないのが灯台もと暗しなのかもしれない。小林秀雄氏のこの文を読んでいた時に私は次の文を思い起こしました (ウィトゲンシュタイン、「心理学の哲学」)。

    はじまりを みいだすことは むずかしい。
    否、はじめにおいて はじめることが。
    そして、さらに、そこから遡ろうとしないことが。

 私の セミナー に出席した若い SE が次の アンケート 文を綴った──「(講師の嗜好 [ 選り好み ] で)言いたい放題を言っている」 とw。しかし、「客観」 と称して尺度に従って語る事などは簡単です、自分自身が実践して掴んだ真 (論理的・事実的な真) を生々しく語る事はそう簡単な事じゃない。私は私自身の嗜好を無視する事も論理の公共性を違反する事もできない──思考とは論理の形式をとった独白の他ない。そして、その独白は面白くなければ他人 (ひと) を惹きつける事ができない。その面白さとは、視点や文体が醸す──同じ材料 (あるいは、主題) を扱っていても、面白い文もあれば退屈な文もある。こんな事は、今更ながら私がどうこう言わないでも、誰もが実感している当たり前の事ではないか。「客観」 という語は、「主観」 に対比して使われる語なのですが、「客観性」 という性質は、論理の中にしか実現できない (構成できない) 属性でしょう──視点は常に主観に属するのだから。私は現実的事態に対する論理的真 [ 事業分析の モデル 論 ] について述べましたが、勿論、文学では、空想の面白さもあれば、現実 [ モデル 小説 (現実を材料にした作り話) ] の面白さもある。日々の仕事が面白いのであれば、面白くない文学をわざわざ読む人もいないでしょう。あるいは、仕事を labor (physical toil) や irksome task としか感じていない人であれば、その疲れを忘れさせてくれるような面白い文学作品でなければ わざわざ読まないでしょう。こんな事は当たり前の事ではないか、作品の技術を云々して小説を読むような読者は (作家を目指している文学青年や、文芸批評家を除いて) いないでしょう。

 
 (2013年 1月23日)


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