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...,don't sin against the truth by boasting of your wisdom. (James 3-14) |
純文学の衰弱とか危機とかが叫ばれ、純文学は何処
小林秀雄氏は、「新人 X」──純文学を書きたいが、純文学に行きづまりを感じている新人作家、という設定ですが、たぶん、世の中に定着している 「文学に対する俗説」 と思ったほうがいいかも──に対して怒っています。怒っている理由は、新人作家が本来見据えるべき問題から目を (意識上であれ無意識下であれ) 逸らして、論点を擦り替えているからです。小林秀雄氏の怒りを他の言いかたで一と口に言えば、「脚下照顧」 か。本来見据えるべき問題とは、、、それは、作家の腕が細った原因は、作家の生活そのものの見窄らしさにあるという事でしょう。誰だって身になっていない事をしゃべれば、それを聞いた人たちに見透かされるでしょう。そんな見え透いた話に惹かれる訳がない。「私小説」 など旧時代の小説のありかたであって、今更そんな小説など書きたくないと思っていても、実は、「私小説」 になるほどの材料 (テーマ) を生活の中で豊富に持ってはいないというのが実態ではないか、と小林秀雄氏は疑っているのでしょう。たとえ、(リアリズム を離れて) 「空想」 の物語を書くにしても、豊富な人生体験が前提となる筈です──「ドンキホーテ」 を読めば、それがわかるでしょう。モデル 小説であっても、事は同じでしょう。自照文学であれば、尚更です。
芸術的技巧が物した小説だと評しても、読み通す前に物語 (あらすじ) を見透かされる様じゃ、そんな小説は厭 (あ) きられるのは当然でしょう。作家の人生観が テーマ を選ぶのであって、身についていないものを狙っても──そして、技巧を凝らしても──こじつけ で取り繕っている事を読者は直感する、こんな事を文学の シロート たる私が言わなくても作家はわかっている筈ですが、そういう作品を私は幾つか読んだ事がある。読み手の側から言えば、「白々しい」 と言うしかない。ちなみに、こういう現象は、文学作品に限らず、「論文」 と称した専門誌寄稿文にも見られるですが、、、本 エッセー の冒頭で引用した聖書 (The Bible) の文を私は噛みしめています。
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