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Offer yourselves as a living sacrifice to God,... (Romans 12-1) |
現代の純文学、特に新しい文学のみじめさは、扱う
小林秀雄氏は、引用文の中で、難しい事を更々言っていない。引用文を読んだ時、私は、彼が他の評論の中で綴った次の文を思い起こしました。
私は、詩人肌だとか、芸術家肌だとかいふ乙な言葉を
作家たる必要条件が暗に述べられていますね。作品の 「理屈ぬきの魅力」 は作家の人生観 (生活理論) が現れたのか、それとも、作家が技術 (制作理論) で制作したのか、、、そのふたつ (生活理論と制作理論) の仕切りは存するのか [ 存しない ]。そうだとなれば、常識な事ですが、作品は作家の人格 (character) と深く関係して来るのは当然でしょう。制作理論上の専門概念に気を取られてしまって、自分が生きている実生活に興味を抱かない人が小説を書ける訳がない、という極々当たり前の事を (しかし、専門家 [ 職業的作家 ] であるが故に、うっかりすると置き忘れてしまう事を) 小林秀雄氏は諭 (さと) しているのではないかしら──自分の生活が みじめな状態なら、その みじめな状態と向きあって その底の底まで凝視しなさい、と。人生の機微がわからずして小説は書けない。ここまで綴って来て、私は、今、禅の ことば を思い起こしました (薬山弘道大師の ことば)。
思量箇不思量底。(箇の不思量底を思量す)
思量しないという事じゃない、私には上手く説明できないけれど、これが ほんとうの realism (写実) という事じゃないかしら──ドストエフスキー の小説には、その 「非思量」 が貫かれていると私は感じています [ ドストエフスキー は、人生の 「註釈 (あるいは、説諭)」 など毛頭やっていない、どんな天才の 「(人生に関する) 註釈」 であっても、小説が説話になったら、一読で飽きられてしまうでしょう (彼は、人物たちを生々しく描いた) ]。
ひょっとして、私は小林秀雄氏の論弁を曲折したかしら? [ 小林秀雄氏の原文にはない余計な事を持ち込んだかしら? ] 尤も、私は文芸批評家じゃないので、小林秀雄氏の評論文を読んで浮かんだ自分の想念を思うに任せて綴っただけです、シロート [ それでも、文学愛好家 ] の感想文として御放免のほどを。
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