▲ このウインドウを閉じる |
..., but inside you are full of hypocrisy and sins. (Matthew 23-28) |
インテリゲンチャ の顔が蒼白いのが確かから、その
君が自己告白に堪えられない、あるいはこれを軽蔑
「新人 X へ」 の結びの文です。忠実なる 「自己告白」 が信じるに足る (誰も否定できない) 唯一つの原物の 「自己」 であることが述べられています。当たり前と言えば当たり前の事なのですが、なかなか できるものではないでしょう。社会の中で生活するとは、「役柄」 を演じる事なのかもしれない。我々は、普段、科白(セリフ)を言っている。それを科白とは感じないなら、それでいいのかもしれないが、科白であると感じていながらも自己を社会化するために 「仮面」 を被る──作家ならば、文壇で話題になっている颯爽たる制作理論で自身を着飾る。「鏡の前で、代表者のような表情をして、顔を作るのはやめてくれ」。あるいは、社会化できぬ自分を病人だと覚っているのであれば、「薬で直ったような気がするのはよしてくれ」。そして、既成の価値・道徳に反するという意味では、忠実な 「自己告白」 は 「デカダンス (懐疑的・退廃的)」 にならざるを得ない。「文壇 スポーツ、その他の スポーツ で死ぬほど退屈している癖に、このいい血色を見てくれなどというのも御免だよ」。忠実な 「自己証明」 こそ、作家たる証しである。それが惨めなものであっても、「自己証明」 を叙情文に託すのが作家である、と。
小林秀雄氏が 33才の時 (昭和 10年、1935年) の作です。
|
▼ このウインドウを閉じる |