anti-daily-life-20130308
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They may look and look, yet not see; (Mark 4-12)

 



 亀井勝一郎氏は、「芸術に対する私の態度」 の中で次の文を綴っています。

     博物館には、云ふまでもなく一流の芸術品が並んでゐる。
    (略) 無数の一流品を次々と眺め、めまぐるしく館内を巡つ
    て、非常な疲労を感じつゝ、結局何も見なかつたやうな
    気持で出てくるものである。これはどういふことだらうか。

     たつた一枚の絵でもいゝ。自分の好むものの前に立つて、
    五分間これを凝視すること。たゞそのためにだけ博物館は
    訪れるものだといふことを、私は忘れがちなのである。五分
    間とは実に短い時間だ。しかしその間全身全霊を傾けて
    眺めつゞけるといふことは、容易なことではない。十分間
    つゞけたら卒倒しさうになる。つまりそれほど激しい肉体
    労働であり、その種の肉体労働だけが真の頭脳労働だと
    いふことを私は言ひたいのである。(略) 美術に対しては
    眼の訓練が必要である。思考力も感覚もすべて眼に集中
    される。落着いた凝視、そのくりかえしといふ当然なことを、
    今の我々は実行しない。(略)

 小林秀雄氏も、似たような事を言っていたのを私は思い起こしました。亀井勝一郎氏と小林秀雄氏は私の尊敬する批評家なので、二人とも眼 (凝視する事) が芸術にとって──音楽なら、耳なのでしょうが──大切な役割を担っている事を訴えているので、私も眼を意識しているつもりですが、私の様な凡人は頭が眼を騙すことが多い。

 ウィトゲンシュタイン 氏 (私の愛読する哲学者) も 「考えるな、観よ」 と綴っていました──その見かたに対して、ポパー 氏 (科学哲学者) は 「どういうふうに観るかは、比較する物がなければならない」 と反論していました。比較・対比は、物を特徴を把握するには確かにわかりやすいのですが、比較する尺度が一様な訳ではないでしょう。たとえば、コーヒーカップ と ドーナツ があったとして、普通の人は、なんら類似性を感じないでしょうが、「穴が 1つある」 構造体して類似性を観ることもできる [ コーヒーカップ の持ち手の穴と、ドーナツ の穴 ]。数学上、パターン (同型) というのは、形の類似性というものがまったく除かれて、一見似ても似つかない物の中に 「関係の一致」 だけしか残らない事をいい、数学者であれば、物の クラス を考える時に、そういう関係を構成しやすい様に物事を観るでしょう。

 事態を観察すれば 「事実」 を把握できるというふうに実感している人が多いけれど、それは視点が数々あるという意味でおいて真実なのです。芸術家なら──もし ゴッホ と セザンヌ が──、コーヒーカップ と ドーナツ を描けば、彼等の描きかたは、きっと相違するでしょうし、その描きかたこそが彼等の物の見かたでしょう。2つの作品を比較すれば、類似性・相違性がわかりやすい事は確かですが、作品と対比されるべき一次的資料は 「事実」 なのであって、作品のあいだの対比は二次的であるという事です。習作をべつにすれば、他人の描いた物を真似る芸術家はいないでしょう、二番煎じは作品にならない。画家は習作では先人の絵を模写するが、模写して咀嚼する。作家でも同じだし、我々凡人でも、手本と仰ぐ人の文を倣うでしょう。作品を真似るのは、「事実」 の見かたを信頼しているからで、先人の見かたを自分なりに咀嚼して個性 (表現の固有性) が生まれる。

 作家・画家が 「事実」 と向きあって、それを観ていかに描いたか、それを語る物は当の作品の他に無いのだから──「全身全霊を傾けて眺めつゞける」 他にやりかたはない。わかりきった事だけれども、単純な事ではない──我々の頭に植えつけられている すでに多くの知見がうっかりすると鎌首をもたげる。

 
 (2013年 3月 8日)


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