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But the things that come out of the mouth come from the heart,... (Matthew 15-18) |
(略) 疑問をもち、考へづゞけ、日常の様々な出来事の
引用文に対して今更ながら註釈をする事はないでしょう。もし一言足すとすれば、The Internet が普及した現代では、亀井勝一郎氏が述べた 「鑵詰を喰いちらして饒舌している」 人々がいっそう目につく様になった事でしょう。読書は、文字を一々辿り、判断し納得し、時に反論しながら、作家の描いた (或いは、思想家の論ずる) 世界を再現する労をとることであって、この労力の速度は The Internet が普及した現代でも変わりはないでしょう。私は、書物を少なくとも三読しなければ批評しない事にしています。そして、三読しても黙っている他はない様な卓絶な書物もあります──たとえば、「哲学探究」 (ウィトゲンシュタイン) や 「正法眼蔵」 (道元) がそういう書物ですが、そういう書物は数十年読んで来て未だに半分くらいしかわかっていない。
私の読書範囲は、殆 (ほとん) ど文学・哲学・数学に限られているので、広範ではないのですが、しかも、読破してきた冊数も少ないけれど、「文は人なり」 という ことば がある様に、私が書物を読むのは、好きな作家や尊敬する思想家と 「対話」 したいがためです。したがって、その作家・思想家の代表作とか凡作とかという世評は気にもしないで、その作家・思想家の作品を出来る限り数多く (出来れば、全集を) 読みます。作家・思想家の人物像が感じられるまで読み込む。作家・思想家の知・情・意が文として現れたのだから、再びその作家・思想家の知・情・意に返す様に読めばいいのだし、そういう読書法には確実な法がないので、時に思い違いもするけれど──普段の生活において、友人との つきあい でもそういう事は時に起こるのだから、書物を読んで思い違いすることも起こり得ますが──、「小暗い処で、顔は定かにわからぬが、手はしっかりと握ったという具合な解り方」 (小林秀雄、「読書について」) が 「文は人なり」 の意味でしょうね。
私の若い頃の読書法は、そうではなかった──濫読して、それぞれの作品の中で、私のためになる文のみを拾う読書法でした。しかし、私は、それが悪い読書法だったとは思わない。生身の人間と つきあうには、色んな つきあい かたがあるでしょう、それは読書でもそうでしょうし、つきあい が広範であれば、友人や尊敬する人物と巡り会える機会が増えるのは確かです。そして、そういう体験をして来て、やがて、書物を書物として読むのではなく、それを書いた人物 (の視点・文体) に感応する様になります──それを書いた作家の人柄を感じる様になります。そして、そう感じた頃には、その作家と つきあいはじめているでしょう。
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