anti-daily-life-20130416
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 亀井勝一郎氏は、「教養に対する私の態度」 の中で次の文を綴っています。

    過剰なものへの鋭敏な反撥、これは教養の最大のしるしでは
    ないかと私は思ふ。

 亀井勝一郎氏は、「徒然草」 の 72段 (いやしげなるもの) を引用して、この文を綴っています。どういう状態が 「過剰」 であるかの判断は、個人の嗜好にも依るでしょうが、基本的には、その事物を取り除いても全体の調和に影響を及ぼさない状態 (「余計」、「無駄」 など) や、取り除けば調和が崩れるので除く事ができないけれども、その性質を故意に誇張した状態 (「どぎつさ」) をいうのでしょう。

 作文に限って言えば、「過剰」 な装飾は推敲を通して削ぎ落とされるのでしょうね──他人事の様な言いかたですが、実際 私は推敲を殆どやらない。職業作家なら推敲を当然ながら重ねるでしょうが、私は文を綴って生計を立てている訳ではないので、本職 (システム・エンジニア) の間隙に感想文を綴っているのであって、丁寧な推敲をする暇がない。それでも、文を出来る限り正確に綴ろうという意識は持っています。作文に関する限り、正確に綴ろうという意識 (物事を凝視して、自分が観た事を自分の印象として忠実に綴ろうとする意識) があれば、「過剰」 な装飾を作為しないのではないか。対象を見失った時、言い替えれば、自分の印象のみに依存した時、「過剰」 な装飾が這入り込む危険性があるのでしょうね。というのは、そういう時には 「概念」 に酔いやすいので。

 「概念」 に直に近付く道はないでしょうね、「概念」 は常に事象・事物を手がかりとしています。事象・事物が思考の重石になっている。言いかたが誇大であるかどうかという事は、事象・事物と対比しているから判断できるのでしょう。「教養」 とは、学問・知識を修め豊かな嗜みを身に付ける事なので、思考 (そして、それを表す文) の正確性が先ず第一の嗜みです。

 しかし、他人 (読者) の視線を意識した時に、自分が鋭いと思われたいために見栄を張って、筆がついつい滑るのではないでしょうか。私も、若い頃、そういう体験を嫌と言うほどしています──若い頃に執筆した拙著は読み返すに堪えない。言い訳になるかもしれないのですが、そういう体験を通して、他人に色目を使う事を馬鹿らしいと思う様になってはじめて 文を正確に綴る (言い替えれば、正確に考える) 事を学ぶのではないでしょうか。

 「教養」 は──この ことば は、今日、軽薄に使われているので、「ほんとうの教養」 と言ったほうがいいのかもしれないのですが──、自分を ごまかさないで物事を正確に凝視する事を学ぶ事であって、それには存外に多大な年数を費やさなければならないのでしょうね。

 
 (2013年 4月16日)


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