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──but if I have no love, I am nothing. (1 Corinthians 13-2) |
かういふ状態に抵抗するためには、繊細な感受性を養ふこと
「かういふ状態」 というのは、「いやしげなるもの」 が多い状態です。
文学をやろうと考えるほどの人たちは、たいがい、ニュアンス には鋭敏です。しかし、それだけでは繊弱な気質でしかないでしょうね。いっぽうで、社会に対する、己の人生に対する疑念 (あるいは、苦悩) を──己を喰い殺さんばかりの烈しい疑念 (あるいは、苦悩) を──宿していなければ、体 (てい) のいい 「優しい」 人と見做(みな) されるだけでしょう。亀井勝一郎氏は、実際、28歳の時、彼の著作 「人間教育」 で自身の生きかたを烈しく凝視しています。本 エッセー で引用した文だけを読めば、亀井勝一郎氏の 「柔和な」 性質だけを読み取って、「人生論」 を披露している様に思い違いされそうなので、一応、注書きして置きます。
「人間は、語り難いところで親しくなるものである。愛情とはさういふものだ」、これを疑う人はいないでしょう。自分の心など得たいが知れないし、得たいの知れない自分の心に探りを入れて頭の中で描いた自分が本来の自分自身であると確信していても、他人はそう思っていない。嘘だと思うなら、恋愛の体験を振り返ってみればいい。恋愛ほど、生身の二人を 「ありのままに」 顕す事態はないのではないかしら。恋愛では、当人たちは逆上 (のぼ) せている様に見えるけれど、これほど直接に間近に他人を観る事態はないでしょう。青年においては恋愛は 「せっかち」 であるけれど、これほど ニュアンス に鋭敏になる事態もないでしょう。古来、「相聞」 (と 「辞世」) が語り続けられて来たのは、相手の生々しい人柄を──相手を 「語り難いところで」──しっかりと掴んでいるからでしょうね。しかし、その気持ちを語ろうとしても 「語り難い」。
「ニュアンス に鋭敏な心を養いなさい」 と言われても、促成で養える訳ではないでしょうね。その人が過去の体験の中で自然と身につけた性質でしょう。日々の仕事や仕事の中での対人関係に疲れ、我々は、ついつい、がさつ になってしまいがちです。しかも、がさつ になっていく事を社会人としての必要悪 (現実的な態度) だと思い込んでいるのではないか。だから、亀井勝一郎氏が言っている事は、頭でわかっても実感できる人たちは そう多くはないのではないかしら。そして、「教養」 が (ニュアンス を鋭敏に感じる) 「はにかみ」 として現れるとしたら、いったい、どれほどの人たちが 「教養」 を身につけているのかしら。私も、勿論、心許 (こころもと) ない。
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