anti-daily-life-20130516
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God had warned them in a dream not to back to Herod. (Matthew 2-12)

 



 亀井勝一郎氏は、「人生に対する私の態度」 の中で次の文を綴っています。

     あまりに迷い多く、生活苦もあつて、絶望的になつてゐる人
    も少くない。人生の様々な事に出会ふたびに、美しい夢をもつた
    人ほど失望するところも大きいであらう。絶望は人生に必ずつき
    まとふものだ。絶望しないやうな人間は或る意味でたよりない人
    だと云へる。何故なら小さな自己に満足し、何らの努力も考へ
    ごともしない人に、絶望は起りえないからだ。絶望は彼が一個の
    まじめな人間であることの証拠だと云つていゝ。

     しかし自己に絶望し、人生に絶望したからと云つて、人生を
    全面的に否定するのはあまりに個人的ではないかと私は思つて
    ゐる。こゝでさきに述べた邂逅といふ事実を思ひ出して頂きたい。
    人生は無限にひろく深い。我々の知らないどれほどの多くの真理
    が、美が、或は人間が、隠れてゐるかわからない。それを放棄
    してはならぬ。自分中心だけで考へると狭くなるものだ。その
    狭さからくる人生否定を私は好まないのである。

 「絶望しないやうな人間は或る意味でたよりない人だと云へる。何故なら小さな自己に満足し、何ら努力も考へごともしない人に、絶望は起りえないからだ。絶望は彼が一個のまじめな人間であることの証拠だと云つてい ゝ」 という文は、言いすぎでしょうね。絶望しないでも生活を真面目に考えている人々はいるし、「絶望した」 と言いながらも絶望の ポーズ (粧い、気取り) に酔っている人々もいるので。

 頭が良くて社会と反りがあわない人々は、絶望を粧う事に巧みです──自分が絶望に酔って、他人が阿房に見えるのでしょうね。そういう人々から、私は、かつて、次の様に皮肉を言われた事があります──「オマエ には、何の悩みもないだろう」 と。余計な御世話です、自分が悩んでいる事を他人に見せて、何が面白いのか。

 「美しい夢をもつた人ほど失望するところも大きいであらう」、それを済 (すく) うには、失望の中に沈潜してそれを凝視するしかない。自分がみじめな状態にあると思っているのなら、そのみじめな状態をとことん凝視すればいい。失望の中にあってそれを凝視する事に腰がひけている ヤツ は、絶望を気取る。しかし、我々は、それを目敏 (めざと) く見抜く。

 「涙とともに パン を食べた者でなければ人生の味はわからない」 (ゲーテ)、しかし、その様 (さま) は他人に見せるものじゃない。見せ掛けだけの絶望なら慢心と気取りさえあれば充分だけれど、ほんとうの絶望は実に多くの才 (人生を今まで送ってきた才の通計であって、一時的な落ち込みではない) を必要とする。いかなる生活にも心労は存するでしょう──かつての夢が破れたら、新たな夢を見ればいいではないか。希望を抱いて出掛けても、雨に濡れながら帰る事もありますが、望み通りにならなかった過去は過去として、自分のために、それを変えていこうという意志こそ甦生の ちから でしょう。
 「絶望は、最後の一秒でいい」 (有島武郎)。

 
 (2013年 5月16日)


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