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God had warned them in a dream not to back to Herod. (Matthew 2-12) |
あまりに迷い多く、生活苦もあつて、絶望的になつてゐる人
しかし自己に絶望し、人生に絶望したからと云つて、人生を
「絶望しないやうな人間は或る意味でたよりない人だと云へる。何故なら小さな自己に満足し、何ら努力も考へごともしない人に、絶望は起りえないからだ。絶望は彼が一個のまじめな人間であることの証拠だと云つてい
ゝ」 という文は、言いすぎでしょうね。絶望しないでも生活を真面目に考えている人々はいるし、「絶望した」 と言いながらも絶望の ポーズ (粧い、気取り) に酔っている人々もいるので。
頭が良くて社会と反りがあわない人々は、絶望を粧う事に巧みです──自分が絶望に酔って、他人が阿房に見えるのでしょうね。そういう人々から、私は、かつて、次の様に皮肉を言われた事があります──「オマエ には、何の悩みもないだろう」 と。余計な御世話です、自分が悩んでいる事を他人に見せて、何が面白いのか。
「美しい夢をもつた人ほど失望するところも大きいであらう」、それを済 (すく) うには、失望の中に沈潜してそれを凝視するしかない。自分がみじめな状態にあると思っているのなら、そのみじめな状態をとことん凝視すればいい。失望の中にあってそれを凝視する事に腰がひけている ヤツ は、絶望を気取る。しかし、我々は、それを目敏 (めざと) く見抜く。
「涙とともに パン を食べた者でなければ人生の味はわからない」 (ゲーテ)、しかし、その様 (さま) は他人に見せるものじゃない。見せ掛けだけの絶望なら慢心と気取りさえあれば充分だけれど、ほんとうの絶望は実に多くの才 (人生を今まで送ってきた才の通計であって、一時的な落ち込みではない) を必要とする。いかなる生活にも心労は存するでしょう──かつての夢が破れたら、新たな夢を見ればいいではないか。希望を抱いて出掛けても、雨に濡れながら帰る事もありますが、望み通りにならなかった過去は過去として、自分のために、それを変えていこうという意志こそ甦生の ちから でしょう。 |
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