anti-daily-life-20130608
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Do not fool yourselves,... (1 Corinthians 6-9)

 



 亀井勝一郎氏は、「人生に対する私の態度」 の中で次の文を綴っています。

     人生何事かを為せば悔恨あり、何事をも為さざれば、これも
    また悔恨といふ言葉がある。おそらくさうだらう。しかしそんな
    ことを考へてばかりゐたつて、どうなるものでもない。一片の
    誠意をもつて生きることだ。苦悩はどれほど多く、ときに堕落
    し、みじめな気持になつても、一片の誠意は失ひたくないもの
    である。それが何の役に立つかはわからない。人生に救ひが
    必ずあるかどうかもわからない。しかし生きて行くことの裡
    には、生かしめられてゐるといふ感じがあるにちがひない。
    他からも生かされてゐるのだ。多くの場合、我々はこの事実
    を忘れてゐる。私はこの事実をさきに邂逅といふ言葉であらは
    してみたのである。私の人生に対する信頼のこれは根拠である。

 たぶん、亀井勝一郎氏は、この文を綴った時に、親鸞との邂逅に感謝していたのかもしれない。しかし、宗教的な謝念をべつにしても、普段の生活の中で、独りで生きていると思っている様な人はいないでしょう。そう思っている人がいるとすれば、自惚れが強い人でしょう。

 私の若い頃を振り返ってみれば、青年期には自分の力を過信して自分を中核にして世の中が回っている思い込んでいた事もありましたが──つまり、自惚れていたのですが──、50才を越えた頃には自分は世の中で変数の一つに過ぎないという事を否が応でも覚りました。それはそのはずで、元来、世の中というのは制度もそれを作って導入した人間も、「関係」 の中で成立している。凡才にすぎない野心家は、自分の凡才を覚るまで、たいがい 他人との 「関係」 を自分の才との比較でしか見ない様です。そして、世の中 (既存の構造) を変えてしまう (あるいは、新しい形態を導入する) 人物が天才であって、その天才も過去との関係で出来上がっているのです。凡人には、その形態を変える才がない。しかし、可能性でしか評価されない若い時には、自分がその可能性を持っていないと思う事は、意気地がないでしょう。

 その可能性に挑む自分が、実は、数々の人たちから学んだ (過去を背負った) 自分である事を自覚しているかどうかが問われる。若い頃は、自分の才は独力で養ったと思いがちですが、「学恩」 (one's debt of gratitude for the learning one has received) という ことば がある様に、今の自分の知識は過去から継承した知識が殆どでしょう──自説などは、ほんの数 パーセント 程度にあればいいほうでしょう (勿論、他人の説を言い替えただけのものは自説とは言えない)。社会の中で生きるという事は、先ず他人の (そして、過去の時代から継承されてきた事の) 真似をしなければ大人にはなれない。自分が独力で事を為したと思い込んでいるのは──他人の真似をして、その恩恵を意識しないのは──、真似る事が社会の前提になっているからでしょう。「生かしめられてゐる」 という思いは、(自分が よほど窮地に陥って、他人から助けてもらった体験がなければ、) 意識しないでしょう。

 しかし、初老にもなれば、自分の成して (為して) 来た事が はっきりとした跡として遺 (のこ) る。否が応でも、月並みな事しか為して来なかった事を はっきりと意識させられる。その時には、自分が凡庸である事を思い知らされる (その時に、そうならないとしたら、天才か よほどの凡暗かのいずれかでしょう)。初老になれば性質が 「円く (穏和に)」 なると云われていますが、そうならざるを得ない (月並みな) 過去を ぶら下げている。そして、人生の後半に至って、自分の凡庸さを思い知ると同時に、それとて その凡庸な自分が他の人たちの助力で生きている事をはっきりと意識しました。

 
 (2013年 6月 8日)


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