anti-daily-life-20130623
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Pilate answered, "What I have written stays written." (John 19-22)

 



 亀井勝一郎氏は、「私は文学をいかに学んできたか」 の中で次の文を綴っています。

     私は二十代に書いたものはむろん、つい昨日書いたものでも、
    過ぎ去った文章は悉く意にみたない。何かを書くことは悦びでは
    あるがまた悔恨の種になるものである。それだからこそ次から
    次へと執念ふかく書きつゞけるとも云へるわけだが、表現の苦心
    だけは一生かゝつても減らないと思ふ。小説家もさうである。
    十年二十年と小説を書いてゐると、誰でも一応は表現の技術を
    身につけるわけだが、そこで満足してゐると忽ち腕がおちてし
    まふ。語り難い難問題にいつもぶつかつて、一番表現しにくい
    ところで表現しようと身もだえしてゐなければならない。これは
    私が改めていふまでもなく、先人達のすべてがこゝろみたところ
    である。

    (略) 芭蕉の言つたやうに、わが句作はすべて辞世といふ覚悟
    がなければならない。我々凡庸な人間には、さういふ張りつめた
    心を持続することは出来ないにしても、一作一作が終焉のきざみ
    であることは事実だから仕方がない。人生は短く芸術は長しで
    ある。芸の道にはこれでもうよいといふことはない。人間はその
    永遠を思ひつゝ、やはり一歩を大切にして行かねばならぬわけ
    である。

 この文を読めば、書いてある事は難なくわかるけれど、実感として納得するのは たやすい事ではないでしょう。幸いか不幸か、私は今まで九冊の著作を認 (したた) めてきたので、この文を実感できます。過去の拙著は読み返したくもない──悔恨のみが強い。私は小説家でも文芸批評家でもないので、文章を綴って生計を立てている訳ではないのですが [ 「表現」 の技術が生活の中核になっている訳ではないのですが ]、書く物が文芸作品ではないにしても、自説を思い通りに述べる難しさは充分に知っています。自分の著作を愛でる人は頭がどうかしていると思う。三島由紀夫 氏は、かれの著作 「『われら』 からの遁走」 のなかで、以下の文を綴っています。

    過去の作品は、いはばみんな排泄物だし、自分の過去の仕事
    について嬉々として語る作家は、自分の排泄物をいぢつて喜ぶ
    狂人に似てゐる。

 私は、初めて著作を出版した時、文句なしに悦びました。しかし、今振り返れば、初めての著作であるがゆえに、執筆は力みすぎて、生硬な文体になった事は否めない。その後の拙著は、二年あるいは三年の間隔で出版してきたのですが、新作は旧作の改訂版という性質をもった書物でした──前作の間違いを訂正して、新たに学び考えた事を世に問うた書物です。したがって、モデル 論について、最新版は 「SE のための モデル へのいざない」 (2009年出版) です (これも中身は、現時点では、もう古くなったので、新作を執筆しようと思っています)。代表作を問われて、「次作です (今から書く作品です)」 というふうに応えた小説家がいましたが、きっと本音だと思う。

 作家崩れの ジャーナリスト は、自分の文体に酔って、文体を一本調子でやってしまう事が多い。私も若い頃はそうでした (苦笑)。初期の拙著に対する読者 アンケート には次の様な感想がありました──「技術書なのに、これほど筆者の意見を述べているのは珍しい」 とか 「この筆者の特徴なのだが、ことば が圧縮されていて、論理を追うのが難しい」 とか。以後、私は文体には注意を払っているつもりです。そして、文体について、ひとつだけ私に誇れる事があるとすれば、亀井勝一郎氏の言う 「十年二十年と小説を書いてゐると、誰でも一応は表現の技術を身につけるわけだが、そこで満足してゐると忽ち腕がおちてしまふ」 事を自覚している事です。

 「つい昨日書いたものでも、過ぎ去った文章は悉く意にみたない。何かを書くことは悦びではあるがまた悔恨の種になるものである」──この気持ちは、作家だけでなく文章を綴る機会の多い人たちなら、きっと抱いているでしょう。頭の中で考えていれば すぐれていると感じられた着想も、文として綴ってみれば論にならない・愚にもつかぬ 「脳髄の痿痺 (いひ)」 現象だったにすぎない事が多い。自分の想像しているほどには自分の脳味噌は賢くない事が文章を綴れば つくづく思い知らされる。過去に綴った文章を読んでそう感じるのは、自分の考えかたが変わっていっている証しでしょうね。文体は、その時々の自分の思いを正確に記述しようすれば、自ずから出来上がるのであって、後になって読み返して恥ずかしいと感じても、今の自分が過去の自分の堆積である事を鑑みれば、その時は実際そういうふうに考えて表したのであって、それを否認すれば今の私は存しないでしょう。自分の考えを出来るだけ正確に表そうとするならば──言い替えれば、思考しているならば──、「表現の苦心だけは一生かゝつても減らないと思ふ」。

 
 (2013年 6月23日)


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