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What is this ignorant show-off trying to say? (Acts 17-18) |
ものを書いてゐると、傑作意識につきまとはれやすいもので
文学者にしてこの言あり、文を綴るというのは難儀な業 (わざ) なのでしょうね。私は作家ではないのですが、文を綴る事には興味を抱いていますし、著作も九冊認 (したた) めて来ました。本 ホームページ の 「反 コンピュータ 的断章」 「反文芸的断章」 を約十年ほど綴ってきましたが、十年のあいだには文体も変わって来ました。当初は、読み手を意識して挑戦的な文体を意図的に綴って見得を切っていましたが、最近は、自分自身のために書いている様に思う。その意味では俗 ウケ する様な文体ではないでしょうね。俗 ウケ するためには、読み手が 「ちょうど私の考えていたとおりだ」 と思う様に綴ればいいのですが──読み手が期待しているのは、自分たち自身の言説なのですが──、読み手は直ぐに平静に還って、自分が考えられる様な言説を いったんは共感しても再読しないでしょうね。そういう ミーハー 本は、読んでいても、これはもう済んだ話を読まされている感じがします。
(実用文 [ 記録文・報告文・論文・報道文など ] はべつとして、) 随筆・感想文は、主題はわかっていても、書いてみなければ、どうなるかわからない──書きながら考えを調 (ととの) えるでしょう。わからないから書くのであって、文を綴るという行為は考える事と同じなのではないかしら。ペン が書いていくにつれて考える。したがって、感想文はいつまでも告白 (あるいは、証言) の形式の名残りをとどめるのであって、文は自分自身を晒す事になります。文学者でない私の様な シロート ができる事は高々それくらいでしょう (文学者なら告白文を作品とする技術も体得しているでしょう)。しかし、シロート が綴った文であっても、自身と真摯に向きあって物した文は、つねに いま書かれた様に新しい印象を与えるのではないかしら [ そう願いたいですね ]。
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