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...and you believe in him, although you do not now see him. (1 Peter 1-8) |
私の家へは小説の志望者はたくさん来るが、評論を書かうといふ
この助言は、評論を書く事に限らず、凡そ文を綴るための鉄則でしょうね。この助言は、文学を志す人たちに向けた配慮なので作品論・作家論を書く事を勧めていますが、私の様な システム・エンジニア が作品論・作家論を書く事はできないので、本 エッセー の様な感想文を綴るのが精一杯ですが、いつも考えてペンをとっていなければ、思考力も表現力も養われないのは当然の事でしょう。作文技術の書物を数冊読んだからといって、作文が上手になる訳ではないし、もし上手になったとしても、規則通りに文を組み立てた、味も素っ気もない文を書いて、悧巧になったと思い込んでいるにちがいない。文を綴るという事も長い年月を費やして習得する仕事なのだから。
作文の技術を養うために、自分が尊敬している作家の文を真似る (筆写する) 人たちは多いでしょう。或る作家の文を真似るという事は、作文法を倣うだけではなくて、物の見かた・考えかたも倣うという事でしょう。したがって、その作家を信じていなければできない。我々は、子どもの頃に外界の出来事を直接に観察して考える事を学ぶのではなくて、言語を習得して社会の中で過去から継承されてきた知識を学んで大人になるのであって、「考える」 という事を意識的におこなう様になった時、自分の尊敬する人物の思想を先ず学んで、そしてその人物の見かたに影響されながらも いっぽうで独自の表現法を探る様になって、やっと自分の眼で外界の出来事を観察できるのでしょう。しかしながら、書物を多く読んだまま、「私たちには、自分の考えを他人の表現に従って理解する事が無暗に多すぎる」 (ヴァレリー)。
私が文を綴る手本としている人物は、亀井勝一郎氏と小林秀雄氏です。日本語の文を綴るには日本人の著作を手本とするのがいいのですが、「考える」 という事を学ぶには、西洋の思想家を手本にしたほうがいいのでないかしら──私が思考の手本にしている人物は、ヴァレリー 氏と アラン 氏です (亀井勝一郎氏も小林秀雄氏も、ヴァレリー 氏と アラン 氏を丁寧に読み込んでいます)。私の Twitter (@satou_masami、モデル 論随想) の文は、彼等 (亀井勝一郎氏、小林秀雄氏、ヴァレリー 氏、アラン 氏) の文章を真似ているのですが、私独自の見かたが いずれできる事を私は切に願っています──私は還暦を迎えたのですが、老いてもその所願は喪いたくない。
ちなみに、アラン 氏は新聞に短文 (プロポ) を書き続け──或る時期には、まいにち書いていますが──、ヴァレリー 氏は思索 ノート を 20才頃から一生綴っていました。ウィトゲンシュタイン 氏 (私が尊敬する哲学者) も膨大な量の思索 ノート を遺しています。私も倣 (なら) って Twitter (@satou_masami) の原文 (今までに 1,100篇ほど) を ノート に綴っています──それらの手書きの原文を推敲して Twitter に アップロード しています。
文章上達の秘訣として 「三多」 という語 (中国の欧陽修の語) がありますが、「三多」 とは 看多 (多く読む)・做多 (多く書く)・商量多 (多く工夫し推敲する) の事。これは秘訣というほどの事ではなくて、当たり前と云えば当たり前の事でしょう。しかし、この当たり前の事を実践するのが難しい。平凡な事は平凡であるがゆえに学ぶべき技術がないと思い違いして、気の利いた 「効率的な学習法」 を探し廻って学習法の書物を多数読み漁っていた事が私の若い頃にはあったけれど、今思うと徒労だった。そういう書物を一冊か二冊読んで文の構成法を学習したら、さっさと文を綴る事です。多く書く事です。先ず制作せよ、推敲はそれからの事だ──これこそ作文の第一条件でしょう。それは、現実の対象をもたぬ、そして対象に形式を与えぬあらゆる思考は必然的に不毛だという事です。したがって、方法論ばかりに興味を抱いて、何一つ具体的な物を産まない──つまり、思考していない (!)──という奇怪な学習態度は、作文の本務は二の次になってしまい、自分の手に入れたと思う 「方法」 が自分の肉そのものになるには如何に年月のかかる事であるかを忘れがちにしていまします。理論の価値は、その論理と実作とによって証明される事を我々は重々知っているはずでしょう──「能書きを垂れる」 というような ことば は、机上から決して生まれはしなかったのであって、実践から生まれたのでしょう。
体調の悪い時には思考 (つまり、文を綴る事) に集中できないのですが、それでもいったん考える事を止めれば次第に怠け癖に陥ってしまうので──怠けるための口実は幾らでも作る事ができるので──、そういう時でも出来る限り文に接する様にするために、私は好きな作家の文を筆写することにしています。
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