anti-daily-life-20140916
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Happy are you who are hungry now; you will be filled. (Luke 6-21)

 



 亀井勝一郎氏は、「私は文学をいかに学んできたか」 の中で次の文を綴っています。

    しかしどんなときに批評家としての生き甲斐を一番感じるかと云へば、
    文学の場合には、何と云つても感動した作品に出会ふこと、その作者
    から直接に教をうけるときである。そしてその作者の肖像を描くこと
    が喜びである。批評の最高はこの意味で云ふなら 「讃歌」 をかくこと
    につきると云つてよい。随分悪口もかくし、悪口も云はれるが、批評家
    としての喜びは何と云つても快く 「讃歌」 を書けるときであり、私は
    それを人生の幸福と思つてゐる。

「讃歌」 を書く事は批評家の生き甲斐であると批評家の亀井勝一郎氏が言っているのだから、そのまま信じていいでしょうが、「感動した作品に出会ふこと、その作者から直接に教をうける」 事──べつの言いかたをすれば、「邂逅」──は、文学に限らず、(亀井氏も他の 幾つもの エッセー の中で綴っている様に) 人生の喜びでしょう。しかし、この喜びには、かならず、苦しみが伴う──特に、自分の才知が及ばない天才と巡り会ったときには、「讃歌」 を書く様な余裕などないはずで ただただ翻弄されるしかなく、「嬉し泣き」 に近い状態でしょう。そして、自分がわかった限りにおいて、天才の思想・技術を学ぶしかない。その限りにおいて、我々凡人のなかで頭のいい人が天才の作を注釈した文は、天才から観れば五十歩百歩であって、五十歩の私は百歩の言を さほど信用してはいない──それだから、私は傲慢と云われる故かもしれない。

勿論、天才の思想・技術を私がわかった限りにおいて咀嚼しているのだから、私の学習した事も信用するには足りない。天才の思想・技術を 「ドヤ 顔」 (あるいは、したり顔) で注釈している文──私も 40歳代の頃には、そういう文を綴る悪癖にどっぷりと浸っていましたが──を読むと、今の私はそういう文に対して嫌悪しか感じない。おそらく、批評されている当の天才も、そういう文を読めば──尤も、天才はそういう駄文を読まないと思いますが──、生半可な注釈に対して呆れてうんざりするでしょうね。

私は、文学者 (あるいは、批評家) ではないので──私は システム・エンジニア を職としています──、他人 (の作) について 「讃歌」 を綴る事には興味がない。私は凡人たる事を寧ろ開き直って、天才の思想・技術を材料とみなして、私のわかった範囲で習得して、以前の私に較べて前進すれば、それでいいと思っています。そうすれば、他人がどうこう云おうと [ たとえば、「君は間違って学習している」 と云われても、天才をわかろうとするのが私の目的ではなく、天才が私にもたらした影響が問われるのであって、] 私の個人事なのだから、他人は口出しできない。研究家でない普通の人は、そういうふうに天才を咀嚼するでしょう。そういう学習法が私のような凡人の強みです。

 
 (2014年 9月16日)


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