anti-daily-life-20141001
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They have left the straight path and have lost their way. (2 Peter 2-15)

 



 亀井勝一郎氏は、「私は文学をいかに学んできたか」 の中で次の文を綴っています。

    私は宗教に関心を深め、文明批評に興味をもち、人生論とか恋愛論も
    かき、また古典の地を訪れて古美術を語ることも楽しみにしてゐる
    わけで、その上文学批評もやるので、いかにも多才のやうにみえる
    かもしれないが、決してさうではない。人生いかに生きるかといふ
    唯ひとつの問ひから出てくることで、貫くものは一つである。表現の
    様式は異つても、表現上の苦労をかさねてゐる点ではすこしも他の
    文学者と異つてゐるわけではない。

私は多才な人物を嫌うほうですが──逆に言えば、一芸を究め様として勉励している人物に惹かれるのですが──、その多才が 「人生いかに生きるかといふ唯ひとつの問ひから出てくることで、貫くものは一つである」 状態にあるときには、多才な人物にも惹かれる。多才は、多種様々な知識の貯蔵にすぎない器用貧乏な、したがって、なにひとつ継続して追究しない食い散らし状態である事が多い。そういう多才と呼ばれている知識などは今の時代では、The Internet を使えば、指先 (fingertip) で簡単に入手できる。多くの知識のあいだになんら脈絡のない状態は、つまり他の知識と 一切 関係をもたない単独な知識は、無意味 (nonsense) でしょう。知識が身につくのは、文字どおりに、自分の身体を使って自分の生活 (人生) のなかで それを用立てた時、そしてその時に限ります。小林秀雄 (文芸評論家) は、以下の文を遺しています (参考)

    ニュートン という人は、無論、今日私達の言う理学博士ではないので、
    実に広大な知識と洞察力とを持った、深く宗教的な人間であった。
    現代風の学問は、こんな簡単な事実も忘れ勝ちである。「プリンキピア」
    は、「考える人々を、神への信仰に導く為の諸原理」 という、はっきり
    した目的で書かれたものだ。従って、彼にとって、一番重要な問題は、
    人生の意味であったと考えて少しも差支えない。

現代社会は、亀井勝一郎氏や小林秀雄氏が生きていた時代に比べて、仕事の分業化・専門化が進んでいて、多才である事がそもそも難しい社会になっていますが、それだからこそ、ひとりの人間として、人生いかに生きるかを考えながら多才であろうと意欲しなければならないのかもしれない [ 勿論、この多才は、雑多な知識の詰め込みという事ではない ]。そうある事は、なんの事はない健やかな常識人であるという事ではないか──つまり、自らの生活を作り続けてゆく事でしょう、「貫くものは一つである」。

 
(参考) 「古典と伝統について」(思想との対話 6)、講談社、220 ページ。
     同書に収められている随筆 「歴史」 から引用しました。

 
 (2014年10月 1日)


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