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The Word became a human being and,... (John 1-14) |
俺は冷くなった炬燵に頬杖をつき、恐る恐る思案した。──俺を
この文は、小林秀雄氏が 28歳になった時に綴った文です(参考)。きっと彼の実感を吐露した文でしょうが、28歳にして、こういう文を綴る才知は、紛れもなく、文学のなかに漬 (つ) かった才識でしょう。私はこの文を読んだ時に、有島武郎氏が 「生まれいずる悩み」 に綴った書き出しの文を連想しました──
私は自分の仕事を神聖なものにしようとしていた。ねじ曲がろう
いずれの文章も、自分と向きあって自分の魂 (精神?) を凝視しようと試みた文ですね──文学たる所由ですね。どういう作品が文学に値するのかという判断は、文学の シロート である私には正確にできないけれど、小説 (散文) に限ってみれば、少なくとも 「思想と物語」 は必要条件ではないかしら──当然ながら、それらを著すには、文体が不可欠です。
閑話休題。さて、小林秀雄氏の文ですが、「俺を支えているものは俺自身ではなく、ただ俺の過去なのかもしれない。俺には何んの希望もないのだから。」──還暦を越えた初老には この思いは実感なのですが、28歳の青年がこういう思いを実感しているというのは、如何なる生い立ちなのか。そして、この文だけなら、ただの早熟な青年の告白 [ 世間を斜に観た stereotype な態度 ] にしかならないのですが、次の文 「だけど、俺が俺の過去を労ろうとすればするほど、それは俺には赤の他人に見えて来る」 が彼独自の視点となって独自の文体を醸していますね。だからこそ、「冷くなった炬燵」 と 「恐る恐る思案した」 が、文の構成上、布石として生きてくる。「自分」 を掴みかねているが、「自分」 (自分の精神) は歴然として在る、そういう実態を凝視している。
一昔前、「自分探し」 というのが流行 (はや) ったけれど、探して見つかるものなら、ヤドカリ の宿探しと同じ態ではないか。小林秀雄氏は、「アシル と亀の子 W」 のなかで次の文を綴っています──
心理とは脳髄中にかくされた一風景ではない。また、次々に言葉に
これが 「自分」 というものではないかしら。私も同意見です。それとも、こういう考えは、文学に取り憑かれた輩の戯言なのかしら。
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