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The Pharisees went off and made a plan to trap Jesus with questions. (Matthew 22-15) |
現代の言語が非常に乱れているのは周知の事だが、一般生活者
小林秀雄氏の この文を読んで、「ことば は社会を反映している」 とか 「ことば の乱れは精神の乱れだ」 というような言い古されてきたこと (stereotype) を言うつもりは私には更々ない。私が ここで論じてみたいのは、「ことば を見聞きして社会の乱れが ほんとうに わかるのか」 という点です──小林秀雄氏の言う 「言語という社会の共有財産は、幾時 (いつ) の時代でも社会の生活秩序と喰い違わない様に出来ている」 なかで、その渦中にいる我々が はたして 社会の混乱を感知できるのか、という点です。
私が大学生だった頃──かれこれ 40年前の頃になりますが──、「学生運動」 が下火になりつつも騒然とした社会でした。その社会状態を表す ことば として、学生運動家 (赤軍派など) が使っていた ことば として 「総括」「自己批判」 がありましたが、その ことば は当時に社会の 「一部」 で語られてはいましたが、社会の大多数は学生運動家と機動隊との攻防戦を テレビ・ニュース で観て 「ぶっそうな (騒然とした) 社会になったなあ」 と言いながら、ごく普通に日常生活を送っていました。社会全体が揺れ動いていた訳ではないのであって、その一部が波風を立てていた、、、「我々は〜、体制側の〜」 と怒った口調で学生たちは スローガン をまくし立てていた。「唯物弁証法的観点」 のような翻訳臭い ことば や 「アジ・プロ 的」 とか 「ヘゲモニー」 などの カタカナ 語が氾濫していました。こういうのを 「日本語の乱れ」 というのかしら? 私は、ノンポリ でしたが、学生運動が盛んな大学にいて、彼等の話す ことば を聞いても、それを 「日本語の乱れ」 として感じたことはなかった。彼等は、今までの日本にはなかった 「マルクス思想」 を──それが正当に咀嚼された思想でなかったとしても──植えつけるためには、ああいう ことば を使わざるを得なかったというのが実態でしょう。そして、それを大多数の 「一般社会」 が承引するかどうかが 思想とか ことば に対する篩 (ふるい) になるのではないか [ 史実としては、受け入れなかったという結末になるのですが ]。
Internet、WWW (World Wide Web)、SNS や PC、スマホ が普及して、今まで自らの考えを発信する手段を持たなかった大多数の人々が発信する手段を得て、膨大な ことば (や動画) が ネットワーク上に格納されるようになって、それらの手段を使えば、今まで見たことも聞いたこともなかった世界 (community) の ことば を目にするようになった。「2 ちゃんねる」 で使われている独特な ことば は、その いくつかは一般社会にも入り込んでいますが、はたして それらの ことば は 「日本語の乱れ」 なのかしら。私 (64才) も 「dis る」 とか 「ポチる」 とか 「FO」「CO」 とか 「DT」 という ことば を使っていますし、若者のあいだで当初使われていた 「マジ」 「やばい」 「うざい」 などの ことば を普段使っています (私は、決して、若者に媚びをうる オジサン ではないので念のため [ 笑 ])。
フォーマル な時と所では、勿論、そういう ことば を使いはしないけれど、いわゆる 「裃」 を脱いだら (気の置けない仲間と酒を呑む時など) 普通に使っていますが、それを ことば の乱れとは一向思っていない。フォーマル に使われる日本語は、過去 50年を振り返っても、それほど変わってはいないように思います (100年前の小説を読んでも、そう思う)。喩えれば、河と同じであって、底流は悠然と流れているが、波風が立っているのは──「日本語が乱れている」 と思わせるのは──、外気と触れている河面でしょう。そして、そういう現象は、当たり前のことであって、時流に呼応して ことば は揺れる。「近頃、日本語が乱れている」 という オジサン たちを見ていて、私には、その オジサン たちの顔が シーラカンス (生きた化石) のように見えてくる。「伝統を守る」 というのは、底流につながる思想を現代のなかに見出すことであって、いっぽう河面は小さい石ころを投げても波風は立つ。「日本語が乱れてきた」 と嘆く オジサン たちも、若い頃には、その社会で通用する ことば を ちゃんと使っていたはずです。そして、底流の異変 (乱れ) に気付くのは、すぐれた文学者しかいないのではないか。
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