anti-daily-life-20171015
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... and anything that becomes old and worn out will soon disappear. (Hebrews 8-13)

 



 小林秀雄氏は、「作家の顔」 の中で次の文を綴っています。

     僕は、今日までやって来た実生活を省み、これを再現しよう
    という欲望を感じない。そういう仕事が詰らぬと思っているから
    ではない。不可能だと思うからだ。泥の中を歩いて来た自分の
    足跡を、どうして今眺められようか。

 私は、思い出のなかに生きたくはない。老年になれば、今までの人生を振り返って自分史を綴る人たちもいるそうですが、私にはできない、、、。私は、そういう人たちを貶すつもりは毛頭ないのですが、恥を重ねてきた自らの足跡を記して どうなるのか?

 来し方を振り返ったとき、思い出を美化してはいないか? 当人に美化するつもりがなくても、過去の行為には それを構成する、そしてそれに影響を与えた種々様々な変数 (構成条件や環境条件) が多くて、現時点から振り返ってみれば、それら変数のほとんどは昇華されて、思い出の印象としての結晶作用が起こって、思い出を美化するつもりがなくても、「今の自分の眼から観た」 再編成という結末に終わるのではないか? それを小林秀雄氏は 「不可能だと思うからだ」 と言っているのだと思う。

 過去の自分の行為は正確に再現できやしない。そして、私のことで言えば、過去を 「今の私」 から観て、悔恨 (あるいは、恥) しか感じない。終焉 (死) を迎えない限り、そこに至る途上は、現時点での自分の状態 (喜怒哀楽の状態) によって、いかようにでも評することができる。終焉を迎えてはじめて すべてが照らされるのではないか?

 
 (2017年10月15日)


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