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If you believe, you will receive whatever you ask for in prayer. (Matthew 21-22) |
僕は不幸にして抜群の資質などというものを持って生れなかった
社会のなかで学ばないで得られるものなど無いでしょうね。我々の本能 (そのなかでも食欲・睡眠欲) は生来そなわっている性質・能力なので、生まれたばかりの赤ん坊でも先天的に得ていますが、本能 (食欲・睡眠欲・性欲の三大本能) さえも具体的な行動には社会のなかで そのマナー (manner) を習得しなければならないでしょう。ここでいう マナー は、広い意味の作法であって、社会のなかでの振る舞いのことです。そういう マナー を我々は、意識的にせよ無意識的にせよ、否でも応でも、社会のなかで少しづつ習得していかなければならない。
我々は、ひとりで学ぶことなどできやしない──かならず、相手 (他人とか書物とか制度など) とのあいだで作用・反作用 (関係) のなかで学ぶでしょう。そういう意味では、「自惚れだって手をつかねて生ずるものではない」。我々は、社会のなかで、数え切れないほどの マナー を学んで生活している。その数え切れない マナー に関して、それぞれの人々には習得の濃淡があって [ マナー に従わないということもふくめて ]、その濃淡のぐあいが その人の個性・人柄を現しているのではないかしら。
そして、社会は無限とも云える豊富な事象があるけれど、個人が体験できることには数限りがある。だから、個人の知らない マナー も数多くある。したがって、自分が属している社会のなかで、自分には豊富な知識・経験があると言っても、高がしれている。還暦をすぎて自らの人生を顧みたときに、自分が属している狭い社会のなかで経験を積んで熟練してきて、それなりの業績をのこした満足感を覚えるか、それとも、この程度の出来栄えにしかならなかったと絶望感を覚えるか、、、その判断を下すのは、その社会のなかで自らが習得してきた知識・経験 (そしてそれらを通して得た知恵、才識) が礎 (いしずえ) となるでしょう。その意味では、「絶望するのにも才能を要し、その才能も学んで得なくてはならぬ」。
私が大学生の頃、尊敬する篠田義明教授が講義のなかで次のようにおっしゃったことを思い出しました──「社会に出てからが ほんとうの勉強だ」 と。当時の私は、大学で学ぶことが 「学問する」 ことであって、社会に出たら学問から離れて俗な渡世術を覚えることが生活を占める、と思っていました。勿論、それは大いなる思い違いだった。先生のおっしゃるとおりでした。自分の個性を伸ばすためには、社会のなかで学問すること、否、「学問せざるを得ない」 ことを私は実感しました。「だから何んでも学んで得べし」。
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