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I can do nothing on my own authority;... (John 5-30) |
「人間は苦悩を愛する」 という ドストエフスキイ の愛好した
小林秀雄氏の上に述べていることは、「文学青年」 だった私には実感としてわかる。そして、職業人としても私は実感できる。少なくとも、「叛逆や懐疑や飢餓を感じていない精神」 には、「新たなものを産み出す」 とか 「既存のものを工夫して改良する」 ということに思いを巡らすことないでしょう。
職業としての芸術家と 「文学青年」 の違いは、この 「苦悩」 を粧うかどうかにある──元より芸術家には身についた苦悩なので、それを粧うことなどないけれど、芸術作品を創る埒外にいる (fully committed していない)「文学青年」 は粧うことができる。というのは、この 「苦悩」 は、専門職に固有の技術 (と その熟練) から切り離せるものではないので。だから、その悩みが、「文学青年」 には粧いとして (意識的であれ無意識的であれ) 顕れる。それが 「文学青年」 に特有の雰囲気を醸し出す。私も若い頃には十分にその雰囲気を醸していた。
幸いにも (と思いたい)、私は、40才の頃に、モデル 技術 (事業分析・データベース 設計のための モデル) を作る仕事に就いた。以来、24年のあいだ、私は ひたすら モデル の「探求に力を傾けた」。そして、若い頃の粧った悩みが本物の悩みに変わった (と思う)。私は、20年前に作った モデル 技術の 「T字形 ER法」 そして それに対して施してきた改変の成果 (モデル TM) には つねに意に満たない。ひとつの モデル 技術を作ったことは喜びではあるが、不満の種にもなる。我々は、仕事の出来栄えに対する不満そしてそれに対する工夫を長年くり返して熟練してゆき、熟練のなかで悩みを強くしてゆくのではないか。悩んで工夫して、また悩む──そのくり返ししかない。職業に固有の技術を持っていて 10年とか20年のあいだ、その技術を使い込んでこなければ、この苦悩 (或る意味では、醍醐味) を味わうことはできないのではないかしら。
人生のなかで多大な時間を費やす仕事を離れても、人生のなかで重大事たる 「相聞と離別」 には依然として苦悩は内包されているでしょう。ということは、人生の底流には苦悩があるということではないか──苦悩があるから喜びもあるということではないか、それらは同体ではないか。あるいは、逆説的に云えば、喜びは悩みに属している、と。そういう意味では、小林秀雄氏の謂うように 「苦悩は人間の意識の唯一の原因である」 かもしれない。ゲーテ の次の言葉は示唆に富んでいる──
世の中のものはなんでも我慢できる。しかし幸福な日の連続 |
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