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...you must forget yourself, carry your cross... (Matthew 16-24) |
精力的な精神は決して眠り度がらぬ。肉体の機構が環境への
私の意見を述べるにあたって、先ず、他人との比較で誘発されるような下らない不満は除きます──そういう不満は、己れを見失ったときに起こるのであって、小林秀雄氏が述べている 「反復を嫌うという理由から、進んで危険に身を曝す」 という精神ではない。小林秀雄氏の言う不満は、己れとの戦いにおいて感ずる飢餓から生ずる不満でしょうね。そして、その飢餓・不満は、物事を真摯に考えているなら、必ず生じると言っていいでしょう。事を為すにあたって 「こんなことは ちょろいものさ」 と思っているような小賢しい (小悧巧な) 精神には、絶対に生じないでしょう。
「文学青年」 にも、幸せ (あるいは、安定) に対する不満・反抗は生ずる。だが、「文学青年」 が感じる不満は、社会に対して斜に構えた、満たされない行き場のない (捌け口のない) 不満であって、「満足が与えられれば必ず何かしら不満を嗅ぎ出す、安定が保たれている処には、必ず釣合いの破れを見附け出す」 ような不満ではない。その状態が、己れに真摯に向きあった職業人と それに憧れつつ全力で仕事をしなかった──「仕事をできなかった」 とは私は敢えて言わない、「仕事をしなかった」 と言っておきますが──自らの不満をぶつけて それを形にする労働 (仕事) を持たない人との違いでしょう。私は自分の仕事を振り返って、「文学青年」 であった若い頃に私が感じていた不満と、モデル 技術を作ることに専念した壮年の私が感じた不満との違いを痛切に感じる──勿論、壮年の不満のほうが どうしようもない飢餓を常に感じていました。そして、老年になった今も、この不満を常に感じている。
「独自の」 モデル 技術を作るという道に踏みだしたのは私が 40才の時です。その時から今 (64才) に至るまで、私は自らの仕事に満足したことがない。技術を作るという出発点において、その技術が 「完成」 するかどうかもわからない [ 勿論、「完成」 などないのですが、それを空想するしかない ]。技術を作る途上では、技術は不備だらけです。少しずつ練りあげていく。技術が一応の体系を整えても、改善点がいくつもある。意に満たない。その不満は私の一連の著作に顕れている──著作は脱稿した時に、ひととき達成感があるけれど、直ぐさま不満の種になる。以前の著作で犯した間違いや意に満たない論考が私に新たな思考を駆り立てる。
モデル 技術が 「或る程度」 整った時点で、その技術を使って金銭を儲けることを考えてもよかったのかもしれないけれど、如何せん私の性質がそれを善しとしなかった。おそらく、物を作る人は、そういう性質を持っているのはないか。自分の造った技術が自分を呪うというような地獄状態に近い。この状態は、己れへの 「執着」 なのかもしれない (苦笑)。私は自らの来しかたを振り返って感傷的になっているのではない、今も生々しい飢餓・不満を感じている。おそらく、この飢餓が無くなったとき、そして そのときこそ、私が引退するときなのかもしれない。
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