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There was a woman, whose dress was the sun and... (Revelation 12-1) |
今日は昔と違って、女性の社会的に活動する領域が大変
現代では、こういう文を読んでも取り立てて清新に感じるようなことはないのですが、小林秀雄氏がこの文を認めた年代は昭和13年 1月 (1938年 1月) です、この年の 4月に 「国家総動員法」 が公布された──彼の知性が ずば抜けていることがわかるでしょう。現代でも、男女平等と云われる割には女性を下にみる男性が多い。
幸いにも、私は、仕事において女性を意識したことはない。30年前 (独立開業する前) に私が勤めていた会社の上司 [ 課長 ] は年下 (2才年下) の女性でした。コンピュータ 技術は私のほうが彼女に比べて上でしたが、マネジメント と対外交渉では彼女のほうが私に較べて すぐれていたので、彼女が上司であることは当然であると思っていました。当時、或る大企業の課長が言った言葉が今でも私の記憶にのこっています──「俺は女の下では働けないなあ」 と。30年も以前のことですから、たいがいの男性はそう思っていたのではないかしら。ちなみに、当時、私は社長室に配属されていて、10名くらいの女性のなかで男は (社長の ビル・トッテン 氏を除いて) 私だけでした。
6年くらい前に本業の傍ら介護施設でパートとして働きはじめて [ 昨年の 6月末で辞めましたが ]、私の上司 [ 主任、施設長代行 ] は 28才の女性でした。初めて介護職に就いた私に比べて、当然ながら、彼女のほうが利用者対応や介護技術は優れているので、私を指導してくれました。当初、ヘマ ばかりしていた私を彼女は サポート してくれて、私は彼女に感謝しても、年下であるということで見下したことはない。
会社組織のなかで与えられた仕事というのは、組織のなかでの一つの役割であって、その役割を為す才があれば男・女の性や (年上・年下の) 年齢などは関係ないはずです。男女雇用機会均等法が施行されたのが 1986年 (昭和 61年)ですが、法律で定めなければならないくらいに男女の雇用が昭和の終わり頃まで歪だったようですね──ただ、その実態は、未だ、法律がもとめるようにはなっていないようです。
私が仕事で性・年齢を意識しないようになった理由 (原因) は、、、私自身はその理由を自覚したことがなかった。私の 20才代は、(恋人を除いて) ほとんど男だけの つきあい だった。大学院では博士課程に進むつもりだったのですが、事情があって修士を修了して、1年間ほど無職だった (定職には就かなかった)。無職だったときに、生活費を稼ぐために、アルバイト として塾の講師をしたのですが、私以外の講師は女性たちでした。その塾が男性を採用したのは初めてのことだった──実は、その塾が新聞の求人欄に募集していたのは女性でしたが、とにもかくにも生活費を稼がなければならない私は履歴書を送って採用された次第です。女性たちのなかで違和感を私は全然感じなかった。
ということは、20才代よりも以前に、そういう性質 [ 女性のなかで働いても違和感を感じない性質 ] が形成されていたとしか考えられない。しかし、私の 10代は、極々普通の中学生・高校生の生活でした。考えられる原因とすれば、文学の影響かなあ、、、高校生になってから、私は文学作品を取り憑かれたように読みはじめた (中学生の頃は全然文学書とは無縁でした)──有島武郎の作品を読み耽った。
有島武郎は、「惜しみなく愛は奪う」 の中で女性の社会進出を訴えています (作品の終わりに近い節 23 から抜萃します)──
女性が今の文化生活に与かろうとする要求を私は無下に
1917年に書かれた文です (100年前です!)。その論旨は、今でも通用するでしょう。そして、私は川端康成の作品も読み耽った。川端作品には、透徹した細やかな女性の眼が一貫して流れている雰囲気を私は感じます。そういう文学作品が私に影響したかな、と思う。
今 思い出したのですが、私の結婚式で ビル・トッテン さんが スピーチ してくださった。ビル さん曰く──「私が ファースト・ネーム で呼ぶ人たちは 5人います。そのなかの 4人は女性です。もう 1人は マサミ です。マサミ には女性的な性質がある」 と。そうなのかなあ、、、──私が他人に与える印象 (私が醸している雰囲気) は私自身にはわからない。しかし、女性的な性質 (いわゆる女子力) って どんな性質のことかしら?
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