anti-daily-life-20180901
  このウインドウを閉じる


whether from wrong or right motives (Philippians 1-18)

 



 小林秀雄氏は、「エーヴ・キューリー 『キューリー夫人伝』」 の中で次の文を綴っています。

     過去の人間の真相は知り難いというが、現在の人間の真相
    を知る方が、もっと容易だとは言えまい。更に又自分の真相
    とは一体どういうものだろう。要するに凡そ物の真相とは、人間
    が追求するが発見は出来ない或るものの様にも考えられるし、
    発見するが追求は出来ない或るもののようにも考えられる。
    恐らくどちらも本当であろう。

 「追求するが発見は出来ない或るものの様にも考えられるし、発見するが追求は出来ない或るもののようにも考えられる」──すばらしい文ですね、私には決して綴ることができない文です、物事と真摯に向きあった人のみが発することのできる文でしょう。

 さて、「真相」 とは、、、マスコミ が多々使う 「事態の真相に迫る」 という常套句 (陳腐な決まり文句) を聞くと私は ひどく不快感を覚えます。そして、彼らが辿り着いた 「真相」 は、なんのことはない もう一つの 「事実」 にすぎない。あるいは、見方を変えた もう一つの推測にすぎない。「なァにを言ってやがる、勿体ぶって」 と私は悪態の一つもつきたくなる。

 「真相」 は当事者にしかわからないでしょう──否、当事者にも はっきりとはわからないのかもしれない。「どうして このようなことをしたのか」 と自問しても、薤 (らっきょう) の皮むき状態に陥るだけでしょう。無限後退に陥るだけでしょうね。

「『意識』とは、『同時進行の自己記述』」(Jaynes J.、認知科学者)──そう考えれば、自分が実際に為した事 それのみが 「真相」 であると考えるのが妥当なのかもしれない。「論理」 の領域とは違って、我々の日常生活では、「因果関係 (法則)」 は成り立たない──しかし、「近代法律学の問題にするものは、犯行ではなくて、犯意の有無である。犯罪ではなくて、犯罪構成要件である」 (三島由紀夫、「小説家の休暇」)。ここに 「動機 (理由)」 を探すということが起こる。 そして、それと同じことが我々の日常生活でも行われている──「真相 (真意)」 を探すと。そして、それが高ずると、しまいには 「相手の真意を見抜く心理学 テクニック」 などという似非科学が堂々と現れる。

 私は、「真相」 とか 「本質」 とか 「実体」 という ことば が嫌いです。嘘を言うとか取り繕うという行為は、「事実」 の単なる虚構・隠蔽・改竄でしょう──その 「事実」 を 「真相」 「本質」 「実体」 などという あざとい言いかたをしなくても宜しい。

 
 (2018年 9月 1日)


  このウインドウを閉じる