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now you have been (略) and Keeper of your souls. (1 Peter 2-25) |
書物が書物には見えず、それを書いた人間に見えて来るの
書物を読む目的には幾つかあって、知識・技術を習得するために読む場合もあれば、自分の思考・情感を養うために読む場合もあれば、単に気晴らしに読む場合などがあるでしょう──小林秀雄氏が述べている読書は、思考・情感を養うために書物を読む場合ですね。私の場合を言えば、読書の半分以上 (六割ほど) は、このための読書です。そして、この目的のための読書では、私は気に入った作家の全集 (あるいは、選集) を買って、その作家を じっくりと読み込んで来ました──その代表的な作家は、有島武郎氏、亀井勝一郎氏と小林秀雄氏です (宗教では道元禅師、哲学では ウィトゲンシュタイン 氏です)。そして、彼らとの つきあい も長い。20歳代の頃から読んでいますから、かれこれ 40年以上も彼らの著作を くり返して読んでいます。
彼らの著作を当初は無我夢中で読んでいたのですが、いくども読み返して [ そして、私も歳を重ねて人生経験も積んできたので ]、今では喫茶店で彼らと対話しているような読みかたに変わっています。活字の向こう側に彼らの声が聞こえる、まるで彼らが語っているかのようです。しかし、65歳になった私は、50歳代の道元禅師に今でも叱られている、、、。勿論 当初は そんな読みかたはできなかった──彼らの考えかたを ひたすら学ぶことに必死でした。くり返し読んでいるうちに、次第に わからなかったことがわかるようになって、彼らとの距離が少し近くなって嬉しく思ったことも 度々 体験しました。そして、彼らの言うことを未だわからない処が いくつもある。「人間から出て来て文章となったものを、再び元の人間に返す事、読書の技術というものも、其処以外にはない」。そして、そういう体験は、一読して わかった気になって いっぱし偉そうに批評することが愚かであることを実感させてくれる。
初めて読んだ書物で得た感動を誰かに伝えたいという思いは それはそれで尊 (たっと) いけれど、くり返し読み込んで得た納得は黙って独りで味わっているほうがいい。友人との つきあい も そうではないか。
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