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You are only a man, but you are trying to make yourself God!. (John 10-33) |
書物の数だけ思想があり、思想の数だけ人間が居るという、
読書にも当然ながら技術と経験が要るのは私の読書経験からも実感できる。高校生・大学生の頃には──すなわち、読書が生活のなかで一つの習慣となり始めた頃には──、小説を読めば作家の情熱に焚き付けられ、学術書を読めば論証の正しさ (無矛盾性) に眩 (くら) まされ、「正論」 を杓子定規に語るという 「習之罪」(*) に陥ってしまい、そして 他人に 「正論」 を伝えたい (あるいは、他人を説得したい) 衝動を抑えがたい。いわゆる 「書生ぽい」 とか 「青い (未熟)」 と云われている状態です。
「情熱」 とか 「正論」 について私は批判的な言いかたをしましたが、青年がそれらに取り憑かれている状態を非難しているのではなくて [ そういう青年を観て、私は自分自身の若い頃を思い出すので苦笑はしますが ]、社会との関わり (社会経験) が少ない青年が書物を通じて得た知識や思想を頼りにしながら社会に向かうのは当然のことであって、社会経験を積むにつれて、書物で得た知識・思想では不十分であると覚るようになるでしょう。そして、それを覚って読書の工夫をしはじめる。しかし、それができない 「大人」 (往々にして専門家と云われている人たち) を私は非難しているのです。
読書 (多読および精読) が進むにつれて、かつ、いっぽうで、人生経験を積むにつれて、「書物の数だけ思想があり、思想の数だけ人間が居る」 ということに気づき始める。私のことを言えば、そういう状態になったのは 50歳を越えた頃だったと思う。30年の年月を要しました。「君は君自身でい給え、と。一流の思想家のぎりぎりの思想というものは、それ以外の忠告を絶対にしてはいない」 と小林秀雄氏は言っていますが──第一級の批評家が言うので、それは間違いないと判断していいのですが──、私が読書を通して得た財産は、「自らを疑う (そして積疑)」 という思考です。マシーン (機械) は、自らを疑うことができない (私の証人は、デカルト と チューリング です)。
自分自身 (の才識・体験) について自信を抱くこと、それはそれでいい。しかし、「自らを疑う」 という (たぶん、人間に特有の) 性質について思い考えなければ、「個性」 という立派な観念も徒花 (あだばな) になりはしないか。「我思う、故に我在り」 (デカルト)、簡単な ことば ですが、徒や疎かに思い給もうな、これこそ 「書物から人間が現れる」 機縁であり、「君は君自身でい給え」 という態度ではないか。
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