anti-daily-life-20181201
  このウインドウを閉じる


love does not keep a record of wrongs (1 Corinthians 13-5)

 



 小林秀雄氏は、「ドストエフスキイの生活」 の中で次の文を綴っています。

     歴史は繰返す、とは歴史家の好む比喩だが、一度起こって
    了った事は、二度と取返しが付かない、とは僕等が肝に銘じ
    て承知しているところである。それだからこそ、僕等は過去
    を惜しむのだ。歴史は人類の巨大な恨みに似ている。若 (も)
    し同じ出来事が、再び繰返される様な事があったなら、僕等
    は、思い出という様な意味深長な言葉を、無論発明し損ねた
    であろう。後にも先にも唯一回限りという出来事が、どんなに
    深く僕等の不安定な生命に繋がっているかを注意するのは
    いい事だ。愛情も憎悪も尊敬も、いつも唯一無類の相手に
    憧れる。あらゆる人間に興味を失う為には人間の類型化を
    推し進めるに如くはない。

 汎化された 「思い出」 など有り得ないでしょう。「思い出」 は、常に、唯一無二の相手に対する追想です。そして、「思い出」 が一番に鮮明な形になって現れるのが、「相聞」 と 「辞世」 ではないか。「相聞」「辞世」 について、私のような凡人にも、今でも生々しく回顧できる記憶の数は十を下らない──その時の相手の面持ちや息づかい、そして辺りの空気さえ、生々しく追懐できる (ただし、そういう個人事を公にするほど私は厚顔ではない)。

 「相聞」「辞世」 が 「後にも先にも唯一回限りという出来事」 であることを私が身にしみて感じたのは、如何せん老齢になってからのことです──「一度起こって了った事は、二度と取返しが付かない」、そして 「思い出」 は (当時 どんなに悲しい辛い出来事でも、当時の私の気持ちは昇華されて) 美しく回顧され、私は堪えきれなくなって泣きたくなる。この昇華は汎化ではない、私の気持ちが次第に消え去る──当時の私の気持ちが昇華されるに応じて、その出来事が 「事実」 のみの裸の格好で立っている。

 私 (65才) も老齢になって、小説 「みずうみ」 (シュトルム 作) の最終章 [「老人」] に描かれている 「回顧」 を身にしみて共感できる。しかし、私は、「思い出」 に浸って生きたくはない。

 
 (2018年12月 1日)


  このウインドウを閉じる